忍者ブログ
QUELO
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

またpixivに投稿しました。

50話以降のcql知己忘羨(字幕版)です。
魏嬰が遊歴から戻って少し経った頃の夏の終わりのお話。
『壟断』『中元節の夜に』の後になります。
思追と景儀を連れて雲深不知処の裏山の川に魚を捕りに行くお話です。

まだ暑いので知己魏嬰にも川遊びをさせたくなりました。
小双璧が好きなので一緒にはしゃいで貰っています。
それなりに遊ぶとは思いますが、藍氏の子たちはこれくらい箱入でいて欲しいです。

香炉シリーズと重なる世界線があっても面白いと思っているので、魏嬰が川遊びをしているのはあちらで出てきたあの場所です。
夏、川遊び……無防備な知己に藍湛は気が気ではありません。
含光君の葛藤、の末の譲歩。

透ける衣ネタは定番ですが、無防備魏嬰を未然に阻止する藍湛のお話にしてみました。
魏嬰溺愛ぶりがだんだん如実になっています。
次は何をさせようかとちょっと楽しくなってきました。

因みにいつもの黒でも駄目なのは生地の薄さ。
ぴったり肌に張り付いてしまうのが許せない藍湛です。
本音は行かせたくないけど魏嬰の望みも叶えてあげたいし、そこまで狭量と思われたくもない。
含光君の悩みは尽きません。

表紙の画像は部屋から撮ったもの。
もうそろそろ夏も終わりですね。
秋冬のお話もいろいろ構想があるので楽しみです。
そしていつかは知己越えを。
皆さまの素敵な知己越えを拝読しているとまだまだ自分の知己越えが固まりません。
イメージはあるのでいずれ書けたら良いなと思っています。

PR
一昨日、またpixivに投稿しました。
伊達双騎の休憩時間に投稿。
今回もそこそこ長いのでpixivのみで。

50話以降のcql知己忘羨(字幕版)です。
魏嬰が遊歴から戻って少し経った頃の夏のお話。
中元節の祭の灯籠流しを見に行く二人のお話です。
『壟断』の後になります。

包容力のありそうな仙督らしさを出ていたら良いなと思います。
魏嬰に影響されて少しだけおおらかになっている藍湛です。

門弟の前でさりげなくいちゃつく無自覚忘羨。
自分の口から告げたかったので門弟の言葉を遮る大人気ない藍湛。
祭に行くことを門弟たちに許したのも自分たちだけ行くわけにもいかないのでという理由から。
何だかんだで全てが魏嬰中心で回っている藍湛です。
そして人前で堂々と魏嬰への気持ちを隠そうともしない藍湛に自分で書いていて恥ずかしくなりました。
あまりcql藍湛では想像出来なかったのですが、気付けば魏嬰の為に何でもやりそうな藍湛になっています。

「帰る」「来年」という言葉は藍湛にとって何より嬉しい言葉ではないかと思います。
こういう言葉を当たり前に交わせるようになった今に幸せを感じるのだろうなと思います。

美味しいものが大好きなので屋台料理の描写はついつい楽しんでしまいました。
魏嬰の好きそうなものを並べてみました。  
夕暮れ、宵闇、灯籠、屋台と、中国のお祭らしい雰囲気を思い浮かべて読んで頂けると嬉しいです。
cqlの潭州の雰囲気が昼夜共に好きなので、祭の装飾は色鮮やかなあの町のイメージで書いています。




早速たくさんの方に読んで頂いて、またもルーキーランキングに入れて頂きました。
いや、一度ランキング入ったのでルーキーではないのでは……?
でもとても嬉しいです。
フォローして頂ける方も増えてコメントも頂けて、何より楽しんで頂けて本当に嬉しいです。
全作品の観覧数が49,000を超えていました。
今回のお話も24時間で2,800回と過去最高。
凄いなあ、忘羨って人気あるんだなあと驚いています。
そして今日もまた素敵な作家さんを発掘。
忘羨って本当に楽しい。
今日は3本くらいを並行して書いていました。
我ながら器用。
書きたいお話がぽこぽこ出てきて1ヶ月くらいお休みしていたい気分です。

『壟断−ろうだん−』

50話以降のcql知己忘羨(字幕版)です。
魏嬰が遊歴から戻って少し経った頃の夏のお話。
2人が赴いた夜狩先で大量の凶屍を相手にしていた魏嬰が傷を負ってしまい……。

雲深不知処を出てしっかり夜狩をしています。
サクッと夜狩の筈がガッツリ夜狩になりました。
思追と数人の門弟たちを連れての夜狩です。
景機はお留守番組ですが安定の立ち位置です。
兄上も少しだけ出ます。

夜狩シーンが書いていてとにかく楽しくて仕方ありませんでした。
戦う藍湛が大好きなのでたっぷり書けて満足です。
cqlの数々の戦闘シーンを思い浮かべて読んで頂けると嬉しいです。

夜狩での忘羨共闘シーンを描きたくて書き始めたのですが、最後は結局甘いお話になってしまいました。
知己知己なのにこんなに甘くて良いのかと思ってしまいます。
まさか知己の内にこんなことをさせるとは思いもしませんでした。
無自覚魏嬰はまだ知己としての独占欲としか思っていません。

因みに半時辰ほどして目覚めた藍湛は間違いなく酔っ払った後のように動揺します。
肉体的な疲労と精神的な疲労で珍しく正常な判断が出来なくなっていた藍湛です。
cql藍湛はこういう人間味のありそうなところが好きです。

いろいろ尤もらしく書いていますが屍毒や御剣等の設定は捏造込みです。 
地名等も地図を見て決めただけなので何となくのイメージです。
因みに藍湛は10時間程ぶっ続けで御剣した設定になっています。
妖魔鬼怪や邪祟も概念が難しくて合っているか分かりませんが、雰囲気で読んでください。

思いの外長くなってしまって冗長な感じも否めませんが、少しでも楽しんで頂けると幸いです。


2万字超えで長すぎて全部載りませんでした。
分けて上げるのも面倒なので残りはpixivで。


白衣を翻して剣を振るうその姿は、雄々しく舞い踊る武神のようだった。
豊かに広がる袂と幾重にも折り重なる裾が身を返す度に翻り、まるで閃光のように漆黒の闇夜に真白の光を放つ。
藍忘機の剣技は流麗でいながら荒々しく、美しさはもとよりその圧倒的な屈強さは見る者を魅了する。
魏無羨が奏でる陳情の音(ね)に避塵の鋭く澄んだ音が重なり、まるでひとつの調べを奏でているようだ。

不意に、藍忘機の背中にたなびく藍白色の抹額の裾があらぬ方へと波打つように翻った。
背後から迫っていた凶屍の爪先がそれへと伸びる。
その瞬間、

「藍湛!」

魏無羨は構えていた陳情を唇から離し、その名を叫んだ。





『壟断』





「この手の訴状は大体ろくな事じゃない」

ひらひらと扇子のように書簡で扇ぐ魏無羨の顔にはうんざりとした表情がありありと浮かんでいた。

「この商家の主はあらぬ嫌疑をかけられて民が一揆を起こしたから鎮圧したと言っているが、そんなのはどうせ当主の体の良い言い訳だろう。大体この手の話は逆だ。商家の横暴さに我慢の限界を超えた民たちが奮起して一揆を起こすんだ。当主は自分を正当化しているだけで話を聞くまでもなかったな」

つらつらと悪辣な言葉を吐き出しながら面倒くさそうに足を進める魏無羨の隣には、泰然とした表情を崩さない藍忘機が寄り添うように肩を並べている。
二人の後ろには、藍思追と数人の門弟が一丈ほど離れて付き従っていた。

雲深不知処を出立して今日で四日になる。
姑蘇と蘭陵との境にある微山湖を北上し、泰山の麓に程近い場所にあるこの町は、大河の支流のそばに位置している為、小さいながらも水運業で栄えた町だった。
町中には幾重にも水路が張り巡らされ、荷を積んだ小舟が行き交う光景は何処か姑蘇の彩衣鎮を彷彿とさせる。

聊家はそんな水運業のみならず鉱山業でも財を成し、近隣の町や村をまとめ上げる商家で、謂わばこの地の豪商だ。
町の中心に位置する聊家の屋敷は広大で、塀から門、母屋や離れの建物の壁にいたるまで色鮮やかな装飾が施され、いかにも豪商らしい、言い換えれば非常に趣味の悪い屋敷で界隈でもよく知られていた。
それは、初めてこの町を訪れた魏無羨らが道を尋ねるまでもなく、少し歩いただけですぐに見つけられたほどだ。

夜狩の嘆願の訴状はそんな聊家からのものだった。
曰く、謂われのない嫌疑から一揆を起こした隣町の民を鎮圧して以来、妖魔鬼怪、いずれかも分からぬ邪祟が大量に現れ、聊家の屋敷を夜な夜な訪れるという。
子の刻になるとドンドンと激しく門扉を叩く音が聞こえ始め、それが延々と寅の刻まで続くので、以来、屋敷の者たちは一睡も出来ずにいるというのだ。

「一睡も出来ないで生きていられるわけがないよな。訴状が届いてから何日だ?もう半月くらいになるだろ。その間全く寝てないって?はっ、ぴんぴんしてたじゃないか」

つい先ほど訪れた聊家の屋敷の様子を思い出しながら、魏無羨は吐き捨てるように言った。

「どいつもこいつも顔色が良くて随分と肥えていたな。とても一睡も出来なかった顔じゃない。邪祟なんか気にせずいかにもたっぷり寝ましたという顔だ」
「……魏嬰」

嗜めるように低く名を呼ばれ、魏無羨はぐっと息を詰まらせた。
いかにも矛先が変わっていきそうだった。
確かにこれは些か過ぎた発言だ。
自分でもよく分からないが、どうにもこうにも聊家のやり口は気に入らない。
ふつふつと込み上げる鬱憤を晴らす為についつい口が回り過ぎていたのは否めなかった。
未だ治まらない苛立ちに口を歪めて鼻を鳴らした魏無羨だったが、視線を向けた隣を歩く藍忘機の顔にもそうと分かるほどの不快さが浮かんでいるのを見て少しばかり心を落ち着かせた。

当主の代理と名乗る者から仔細を聞いたが、聞けば聞くほど不愉快極まりない話だった。
そもそも訴状を送った当主が不在ということが何としても解せない。
こうしている間も財を成すことしか頭に無いのだろう。
市井の中にも恐怖が拡がり、ほとほと困り果てていると口では言うが、要は聊家の屋敷があり、金を生み出すこの町を壊されることが嫌なだけで、それは決して邪祟から民を守る為ではない。
あくまでも自家の屋敷と財を守る為だ。
こんな傲慢で横暴な当主に鎮圧と言う名の元に散らされた民を思うと同情を禁じ得なかった。

訴状は言葉巧みに書かれていた為、そんな実情は分からなかったが、しかし調べるうちに聊家のみならず市井や近隣の村にまで邪祟の被害が出ていることが分かり、とてもこのままにしておくことは出来なかった。

「ま、とにかく邪祟を退治するのが先決だな」

己の感情を後回しにすべくそう呟くと、藍忘機が同意するように浅く頷いた。


件の町はそんな聊家の屋敷がある町から十里の場所にあった。
半時辰ほど歩いて辿り着いたそこは、もはや枯れ果てた町だった。
人影は無く、一揆の鎮圧の名残りか家屋は崩れ、賑わっていた頃の名残りは全くと言っていい程残っていない。
かろうじて元宵節の赤い飾り提灯が埃を被って残っているのは、この町がまだその頃まで生きていた証だろう。
半年前には人が溢れていたであろう蕭々とした通りを北へと歩みを進める。

遊歴中にも魏無羨はあちこちの山野を歩き、数々の町や村を見てきたが、蘭陵は特にこんな場所ばかりだった。
そこを治める世家が崩れるということはこういうことだ。
宗主に就いたばかりの金凌はまだ若く、宗主を助けるべき金氏の先達たちは揃いも揃って金氏の権力を傘に着て歴代宗主に媚びへつらい、私欲に走り、世家としての責務を果たしていない者ばかりだった。

かつての仙督である金光瑤の唯一の功績とも呼べる瞭望台も今はその大半が機能しておらず、金麟台に程近い場所でも、小さな町はその地の豪商によって私利私欲の元に不利益を強いられ、民は虐げられているのが常だった。
この町もそんな場所の一つに違いない。

仙督となった藍忘機が四大世家である他の三家の協力の元に各地の世家の精査を進め、瞭望台の再建を含めて修真界の統治を進めてはいるが、この広い世の隅々にまで目を向けることは容易ではなく、それを成すにはまだまだ果てしなく時間はかかる。
そうしている内にも消えていく町はある。
栄枯盛衰。
まさしく世は無常だ。


「お、蛙だ」

聊家の屋敷を出てからくさくさとした気分で歩いていた魏無羨は、道端から飛び出てきた黄緑色の小さな雨蛙を見て足を止めた。
親指の先程のそれをひょいと屈んで捕まえると、

「藍湛、蛙だ」

そう言ってむんずと掴んだ藍忘機の掌に乗せる。
藍忘機は無言のまま暫しそれを眺めた後(のち)、ゆったりと屈んでその雨蛙を道端の草むらに戻してやった。
捕まえた魏無羨はと言えばもうすっかり雨蛙への興味は失せ、今度は道端の葦を一本摘み取ってゆらゆらと揺らしながら歩いていた。

雲深不知処を出てから道中はずっとこんな調子だ。
後ろを歩く藍思追や同年の門弟たちは、そんな魏無羨の自由気ままな行動にくすくすと笑いをこぼしたり、時にハラハラしたりすることを繰り返していた。

朽ちた町の周りには青々とした夏草が生い茂るかつての水田が広がっている。
この町が商業だけではなく、田畑の恵みを受けていた町だったということが分かる。
小さいながらも近隣の町への交通の要所でもあったのだろう。
しかしそんな水田は、今は畦道が見えない程に腰までの高さにみっしりと生えた雑草に覆われていた。
秋には豊穣の実りを結ぶ稲ではなくとも、青々とした夏草に澄んだ清らかな水が流れる水路と、遠くに聳える泰山の麓に広がる風光明媚なその光景はとても朽ちた町のものとは思えなかった。
だがしかし、振り返ればそこは荒れ果てた家屋が建ち並ぶ荒涼とした町で、人ひとり歩く姿も無く、往時にはあったであろう賑わいは見る影もない。

何処か義城を思わせる町だった。
乾いたあの町のように白く煙る霧こそ無いが、澄み渡った青空と生い茂る夏草の鮮やかな色彩に囲まれていながら、それとは対象的に町自体はまるで墨を刷いたような色を欠いた灰色で埋め尽くされていた。


「ここで待つことにするか」

町の中と外とを一通りぐるっと見て回った後、門閭のすぐそばにある一軒の家屋の前で立ち止まって魏無羨は言った。
日が暮れるまでまだ時間がある。
邪祟が現れるまでどれくらいかかるか分からない為、夜狩に備えて仮眠を取り、夜まで待つことにしようと魏無羨は告げた。
藍忘機も異論は無いようで、黙して頷くと先に立って扉を開け、中へと入って行った。
ギギギギと耳障りな音を立てて開いた木戸の向こうに吸い込まれるように藍忘機の後ろ姿が消える。
その後を追おうとした魏無羨は、ふと、自分の背中に向けられた幾つもの視線を感じて足を止めた。

「どうした?」

振り返った先にある強張った顔の門弟たちを一通り眺めてから、魏無羨は首を傾げた。
揃って入りたくないような素振りを見せる彼らは、互いに顔を見合わせながら何かを口にすべきかどうか迷っているようだった。
そうしてひと呼吸を置いてから、

「魏先輩」

意を決したように藍思追が声を上げた。
その顔には未だ躊躇うような表情が浮かんでいたが、促すように魏無羨が微笑むと、漸く重い口を開いた。

「あの、この家は何か嫌な気がするのです」

ひと息に告げた藍思追に、まわりの門弟たちも同意するようにこくこくとしきりに頷いている。

「嫌な気?」

陳情を片手に胸の前で腕を組んだ魏無羨は、首を傾げたまま目顔で続きを促す。

「何というか、上手く言葉に表せないのですが、邪気とも違う、陰の気……とても不穏な気というか、負の感情というか……」

藍思追にしては珍しく言い淀む姿に、魏無羨はその理由に思い至った。
なるほどと一人頷いてから、片方の口端を上げて何処か狡猾そうな笑みを浮かべると、手にした陳情をくるりと回してその先を藍思追に向ける。

「思追、それは間違ってないぞ」
「えっ?」

驚きの声を上げた藍思追は思わずといったふうに剣の鞘を握る手に力を込めた。
後ろにいる門弟たちにも動揺がさざ波のように広がる。
不意に真顔になった魏無羨はそんな子供たちを見回すと、声を低め、もったいぶった口調で、

「此処は義荘だからな」

こともなげにそう言った。

「義荘…?!」

異口同音、声を上げた藍思追らの反応に、途端に魏無羨の顔にいつもの笑みが戻る。
そうして、

「どんな町にでも義荘の一つくらいあるだろ?」

珍しくも何ともないと続けて魏無羨は呵々(かか)と笑った。   

どうりで陰の気が強く感じられるわけだ。
よりにもよって何故、義荘なのか。
他にもたくさん家屋はあるのに何故、此処を選ぶのか。
仮眠とはいえ、義荘で落ち着いて眠れるわけもない。

恨めしげな顔で雄弁にそう訴えかける子供たちを見下ろすと、  

「門に近いからさ」

それだけ言って魏無羨は中へと入って行った。

確かに町によっては凶兆が吉兆を喚ぶいう思想の元、わざわざ門閭のそばに義荘を置くところがある。
しかし門に近いだけなら向かいの家でも良いのではないかと門弟たちは皆思ったが、口に出せず、仕方なく魏無羨の後を追った。
中に入ると、藍忘機は既に床に座して瞑想の域に入っている。
その隣に悠々と魏無羨が寝そべるのを見て、藍思追はふっと笑いを零した。
此処がどんな場所であろうともこの二人がいれば安心だ。
頼もしい二人の姿に、今は為すべきことを為すだけだと心を改める。

「魏先輩、どうやって邪祟を鎮めますか?どれほどのものか分かりませんが、一揆を鎮圧されて亡くなった民だとすれば怨念も強いですよね」

藍思追が魏無羨のそばに行き、夜狩の算段を立て始めると、他の門弟たちもそれに倣ってわらわらと集まり始めた。
その顔には先程まで浮かんでいた不安げな表情はなく、一介の仙師としての自信と頼もしささえ感じられた。
そんな彼らの様子に魏無羨はにっこりと笑みを浮かべ、藍忘機は一度だけ瞼を上げて門弟たちを一瞥するとまた静かに瞑想の淵へと降りていった。





戌の刻を半時辰ほど回った頃だった。
突然響き出したガタガタと扉が揺れる音に、魏無羨は閉じていた目をぱっと見開いた。
隣に座っていた藍忘機がゆっくりと瞑想の淵から抜け出る。
藍思追たちもはっとしたように身を起こし、一瞬にしてその場に張り詰めたような緊張感が漲った。

魏無羨は壁に寄り掛かっていた背を起こすと、前もって開けていた紙窓の穴を指で広げ、外を窺い見た。
白白と輝いていた満月はいつの間にか雲に隠れ、朧の月明かりに照らされた通りには生暖かい風がゆっくりと渦を巻くように流れている。
時折思い出したかのように強くなるそれが、またガタリと扉を揺らした。
その風に乗って、グゥグゥと獣が呻くような不気味な声が聞こえる。

「思った通りだな」

囁くように声を落とした魏無羨の言葉に藍忘機が頷いた。
背後では年若の門弟たちが緊張した面持ちでそわそわと浮き足立っているのが気配で伝わってきたが、藍思追と同年の門弟が目配せをしてそれを宥めているのが視界の端に映った。
藍思追の頼もしいその様子に魏無羨は口角を上げると、再び外へと視線を向ける。

昼間、全く人気の無かった家々から次々と凶屍が這い出して来るのが見えた。
ぼろぼろの衣を纏い、その手には鍬や鋤や鉈等が握られ、だらりと引き摺るように下げている。
それらがザリザリと地面を擦る音が徐々に大きくまとまりながらこちらへと近付いて来る。

案の定、聊家の屋敷がある町に夜な夜な現れる邪祟というのは、一揆を起こし、聊家に鎮圧されて凶屍となったこの町の民だったのだ。
凶屍たちは、毎夜この町から聊家の屋敷へと向かっていたに違いない。
途中の村々でも目撃情報があったのも頷ける。
凶屍となった民がぞろぞろと十里もの距離を移動するとはなかなかの怨念だ。
聊家の屋敷に現れるのが子の刻ということだから、この凶屍たちは常人であれば半時辰で歩ける距離を二時辰もかけて移動していることになる。
果たして凶屍の足で速いのか遅いのかは分からないが、余程の怨念だということは窺い知れた。
実際、凶屍の数が増えるにつれてビリビリとした強い邪気が家の中にいても伝わってくるようだった。

「藍湛、奴らがこの町から出る前に片付けよう。恐らくここまで怨念が強いと化度は出来そうにない。終わったら鎮めてやろう」

藍忘機が頷くのを見て、魏無羨は背後を振り返った。
状況によっては手を出さずにいることも考えていたが、子供たちに任せるには数が多過ぎて荷が重い為、今回は二人が主となって片付けることにする。

「思追、俺と藍湛で出来るだけ引き付ける。お前たちは取りこぼした奴らを始末しろ。昼間仕掛けた縛仙網を上手く使え」
「はい」
「一体たりとも門から出すな。いいな?」
「分かりました」

矢継ぎ早に指示を出す魏無羨の言葉に藍思追らは緊張した面持ちで頷いた。
だがしかしそこは若いながらも姑蘇藍氏の門弟であり、数々の死線を越えてきた魏無羨への憧憬の眼差しと共に、その顔には仙師としての使命感と自信も満ち溢れていた。

「よし」

魏無羨はそんな少年たちを満足そうに見渡すと、藍忘機を振り返り目顔で頷いた。


バン!と勢いよく扉を開くと、途端に生暖かい風が吹き込んで肌を撫でた。
すっかり雲に覆われて月明かりの無くなったあたりには漆黒の闇が拡がっている。
先陣を切って躍り出た魏無羨が闇夜に向けて何枚もの明火符を飛ばす。
仄かな明かりに照らされた通りには、夥しいほどの凶屍の群れがすぐそこまで迫っていた。
ずるずると足を引き摺りながら門に向かって歩いていた凶屍たちが、明火符の明かりに足を止める。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、驚く程俊敏な動きで突如走り出した凶屍の群れがうねる波のようにこちらへと押し寄せて来た。

「お前たちは下がれ!」

魏無羨はそう叫ぶと、剣訣を結んだ二本の指を素早く宙に滑らせて文字を書き、一瞬にして浮き上がった鮮やかな橙色の光を掌底で凶屍に向けて放った。
刹那、数体の凶屍が吹き飛ぶ。
その後を追うように跳び上がった藍忘機が即座に避塵を振るい、更に数体を一閃で薙ぎ払った。
しかし吹き飛ばされた凶屍の後ろからまたすぐに次の凶屍が現れる。

通りを埋め尽くす凶屍の群れは、まるで溢れた糖蜜に群がる蟻の大群のようだった。
闇の中で黒々とした有象無象が蠢いている。
ある者は不自然極まりなく首を傾げ、ある者はあらぬ方へと足が向いたままそれでどうして歩けるのか真っ直ぐにこちらへと向かって来る。
魏無羨の呪符によって吹き飛ばされ、藍忘機の一閃に薙ぎ払われても尚、その数は一向に減らない。

「思ったより数が多いな!」

ぞろぞろと湧き出るように次々と現れる夥しい数の凶屍に向けて呪符を投げつけながら、魏無羨は声を張り上げた。
その声に応えるように、振り向きもせずに藍忘機が避塵を後ろに払って青い剣芒で凶屍をまた吹き飛ばした。

藍忘機が右側から回り込み、振り向きざまに凶屍を避塵で一閃すると、魏無羨は左側から回り込み、呪符を飛ばして別の凶屍の一撃を陳情で払う。
くるくると舞い踊るように右へ左へ前へ後ろへと場所を入れ替えながら、藍忘機と魏無羨は襲い来る凶屍の群れを次々と薙ぎ倒していった。

互いに背を預け、呼応するように戦うその姿に、一線から少し離れたところで二人の攻撃を掻い潜った凶屍を相手にしていた藍思追は、畏敬の念を感じずにはいられなかった。
まだまだ荒削りで力まかせであることを否めない藍思追の剣技と違い、藍忘機のそれは流麗で一切の無駄が無く、魏無羨が術を繰り出す姿はいっそ粛然としている。
まさに静と動だ。
魏無羨が陳情を奏でるとその対比はよりいっそう強いものになる。
平素とは真逆のその姿は、剣を持たない魏無羨を藍忘機が守っているかのようにも見えた。

いつも飄々として一見軽薄そうに見える魏無羨だが、その実、洞察力に長けていて非常に思慮深い。
それが如実に現れるのが夜狩だった。
どちらかと言えば楚々としたその見た目に反して意外にも藍忘機は力で捻じ伏せる方だが、魏無羨はあらゆる視点で物事を考え、時には思いもよらない方略を巡らせている。

義荘を選んだのも理由があったのだと藍思追はこの時初めてそれを知った。
よく見れば、先程まで藍思追らがいた義荘は丑寅の鬼門に向けて紙窓があって邪祟が現れる方角が見渡せるが、向かいの家にはそこに窓は無く分厚い土壁があるだけだった。
あれでは凶屍が現れても気配を感じられず、気付くのが遅れてしまう。
それに義荘の軒先は他の家々よりも僅かに高い上、かつては灯籠を吊るしていたであろう杭が幾つもあって縛仙網を仕掛けるのにうってつけだった。

魏無羨が同行する夜狩では、こうした座学では得られない実践での経験をいつも自然と教えてくれた。
そんな人だから門弟たちから慕われ、藍思追も当然慕っている。
雲深不知処に留まりまだ三月(みつき)にもならないが、魏無羨が夜狩の引率に決まると門弟たちは心なしか浮き足立つのだ。
と同時に、今回は一体何が起きるのだろうかと一抹の不安を感じずにはいられなかったが、好奇心旺盛な子どもたちはそれはそれで楽しみでもあった。

「思追、行ったぞ!」

魏無羨の声にはっとした藍思追は、師である藍忘機譲りの戦い方で目の前の凶屍に蹴りを入れると、再び剣を振るい始めた。

三丈ほど先では藍忘機がもう何度目か知れない青い剣芒を放っていた。
凶屍の一撃を鞘で受け止め、その腹を足で蹴り飛ばすと、今度は身を翻して背後の凶屍に避塵の剣首を打ち込み、返した剣身でその体を薙ぎ払う。
魏無羨が呪符を飛ばして身を屈めると、跳び上がった藍忘機がぶわりと降り立って頭上から一気に避塵を振り下ろした。
一刀両断にした凶屍の体がぐしゃりと音を立てて崩れ落ちる。
それでもまだ途切れることのない凶屍の群れはうぞうぞと不気味に蠢いていた。

呪符だけでは功を奏さないと分かると、魏無羨はいよいよ腰に差していた陳情を取り出し、口元へと運んでそれを構えた。

一声は、闇を震わすような低く厳かな音だった。
何処か物悲しげなその音色は、やがてうねるように甲高く、時に腹の底を擽るように低く、月を隠す叢雲が風に流れて生き物のように形を変えるが如く変幻自在に闇夜に響いた。
この世のものとは思えない、禍々しくも美しい音色だ。
縦横無尽に蠢いていた凶屍の動きが徐々に緩慢になっていくものの、しかし何しろ数が多過ぎる。

(藍湛が一緒に来てくれて正解だったな)

門弟たちだけではどうにもならなかったに違いないと魏無羨は思った。
魏無羨と藍忘機の力を以ってしてもここまで苦戦を強いられるのだ。
町ごと凶屍になったようなあまりの数の多さに、そうならざるを得なかったそこまでの怨念とは一体何だったのだろうかと考えずにはいられなかった。

陳情を奏でながら、魏無羨は自分を中心に旋回するようにして凶屍を薙ぎ払っていく藍忘機の姿を見つめた。

白衣を翻して剣を振るうその姿は、雄々しく舞い踊る武神のようだった。
豊かに広がる袂と幾重にも折り重なる裾が身を返す度に翻り、まるで閃光のように漆黒の闇夜に真白の光を放つ。
藍忘機の剣技は流麗でいながら荒々しく、美しさはもとよりその圧倒的な屈強さは見る者を魅了する。
魏無羨が奏でる陳情の音(ね)に避塵の鋭く澄んだ音が重なり、まるでひとつの調べを奏でているようだ。

魏無羨の陳情に藍忘機の避塵と、二人の宝器と得物が次々に攻撃を繰り出していくものの、如何せん数が多過ぎた。
市中の民が凶屍になっていたとしてももういい加減終わりだろう、あと少しだ、そうあって欲しいと思った時だった。

不意に、藍忘機の背中にたなびく藍白色の抹額の裾があらぬ方へと波打つように翻った。
背後から迫っていた凶屍の爪先がそれへと伸びる。
その瞬間、

「藍湛!」

魏無羨は構えていた陳情を唇から離し、その名を叫んだ。
そうして藍忘機の方へと足を踏み出す。

いつもであれば藍忘機の邪魔にならないように上手く動くのだが、うっかり余計な手出しをしようとしたのは迂闊だった。
魏無羨の声にはっとしたように藍忘機が斜め後ろに飛び退って凶屍の一手を躱す。
その拍子に、行き場を失った魏無羨の身体が僅かに傾いで均衡を崩した。

「!」

しまったと思ったのも一瞬で、次の瞬間には左脚に鋭い痛みを感じて魏無羨はその場に頽(くずお)れていた。

「魏嬰……!」

咄嗟に駆け寄った藍忘機が魏無羨の肩へと腕を回し、その身体を支える。
そうしてそのまま身を翻すと、容赦なく襲い来る凶屍たちを振るった避塵で一瞬にして薙ぎ払う。
冴え冴えとした青い剣芒が閃光のように闇夜に広がった。 

「魏嬰……っ」
「魏先輩!」
「魏先輩っ!」

右から左から聞こえる自分の名を呼ぶ声に、魏無羨は今はそれどころではないと早口で告げる。

「藍湛、俺は大丈夫だ。それより凶屍たちを早く。思追たちだけじゃとてもじゃないが持ち堪えられない」

膝をついたまま再び陳情を構える魏無羨の姿に藍忘機は頷くと、すぐさま踵を返し、凶屍の群れの中へと飛び込んで行った。
魏無羨もまたすぐに陳情を奏で始める。
しかしその音色は先程までとは違い、徐々に精彩を欠いたものになっていた。

じくじくと疼くような鈍い痛みを感じながら、凶屍の爪に襲われた箇所へと目を向ける。
かろうじて急所は避けたものの、見事に左脚の脛が抉られている。
骨が見える程ではないが、引き裂かれた下衣の間から真っ赤な血肉が覗いていた。
だらだらと溢れ出す血があっという間に靴の中までをも濡らす。
これがただの傷ではないことは明白だった。
傷の痛みとは別に徐々に身体から力が抜けていくのが分かる。

屍毒だ。

かつて義城で藍景儀たちが浴びたそれは薛洋が意図的に作り出したものだったが、もともと屍毒は凶屍の体から発生するものでもある。
死体が腐敗して出来る屍毒とは異なり、強い怨念が元となり、凶屍の皮膚や爪、血液が毒を帯びるのだ。
どうやらこの凶屍たちの怨念は相当に深いものだったに違いない。

数々の彷屍や凶屍との死闘を繰り広げてきた魏無羨だが、この身体で屍毒を受けるのは初めてのことだった。
義城では毒を受けることも経験の内だと軽口を叩いていたが、なるほど、確かにこれはなかなかに辛いものだ。
願わくば二度目は無いと期待したいところだが、次に子供たちと一緒に浴びる機会があった時にはまずは避ける方を推奨しようと心に決めた。

「……しくじったな」

目の前で凶屍たちと乱舞するように避塵を振るう藍忘機の姿を見つめながら、魏無羨は一人ごちていた。
仮にもかつては仙術を修行した身でありながら、凶屍の爪を受け、あまつさえ屍毒にあたる等という失態を犯すことになろうとは思いもしなかった。

いつしか陳情は唇を離れ、それを握る手にも力が入らなくなる。
ぼんやりとしていく意識の中で、避塵の澄んだ音が次第に遠ざかっていく。
やがて、ゆっくりと深い水の底に沈んでいくように魏無羨は意識を手放した。





「魏嬰」

頭上から落とされた藍忘機の声に、魏無羨は重く閉ざしていた瞼を持ち上げた。
避塵を鞘に収めたその姿を見て、漸く凶屍の群れが片付いたのだと悟る。
夥しいまでの文字通り屍の山を作り上げた藍忘機は、よく見れば僅かに息を上げているものの、汚れ一つない白衣を纏ったその姿はつい先程まで目の前で暴れ回っていたとは思えない静謐さを湛えていた。
しかしその顔には紛れもない焦燥の色が浮かんでいる。

「魏嬰、しっかりしろ」

あまりの倦怠感にぐずぐずと地べたに崩れかけていた身体を藍忘機が引き上げる。
掴まれた二の腕に痛みを感じるほど、藍忘機の手には力が込められていた。

「……っ!」

強く引き起こされた衝撃で左脚に激痛が走り、魏無羨は息を呑んで硬直した。
黒衣のせいで一見しただけでは分からないが、再び顔を覗かせた月明かりに照らされた左脚はぐっしょりと血に濡れているのが分かった。
ぱっくりと開いた傷口はまだてらてらと不気味に光を帯びている。
藍忘機が魏無羨の元に戻ってきた時にはもう、はっきりそうだと分かるほどに左脚の脛はどす黒く染まり、悪詛痕のようにその患部の範囲を広げていた。
屍毒のせいで傷口からはゆらゆらとした瘴気が薄っすらと靄のように立ち昇っているのが月明かりの中でも見て取れる。

「魏嬰……」

ひと目で屍毒だと察したのだろう。
あまりの痛ましさに夜目でも分かるほど藍忘機の白い顔が雪のように更に白くなった。
藍忘機にそんな顔をさせてしまったことが心苦しく、魏無羨はますます自分が余計なことをしたばかりにと後悔をし始めた。

魏無羨の左脚の傷を見た藍忘機は、懐から取り出した小さな布袋から細かく砕いた葉のようなものを指に取ると、素早くそれを傷口へと振り掛けた。
凝血草だ。
乾いた葉が血を吸い、だくだくと溢れていた血が徐々に黒く固まっていく。
次いで藍忘機はまた懐から今度は折り畳んだ油紙を取り出して開き、小さな黒い塊を摘み上げた。

「魏嬰、これを」

開けろと促され、雛鳥のように素直に開けた口に丹薬を押し込められる。

「んぐ……っ」

飲み込むまでもなく口腔に広がったこの世のものとは思えないほどの得も言われぬ苦々しい味に、途端に魏無羨は顔を顰めた。
舌や喉に至るまでビリビリと痺れるような感覚に涙さえ浮かんでくる。

「な、んだ、この味は……っ!」
「痛み止めと血止めだ」

淡々と告げる藍忘機に魏無羨は顔を引き攣らせた。

(傷を受けた時よりも衝撃的って、一体何なんだ!)

あまりの不味さに気を失いそうになる。
姑蘇藍氏の丹薬はあの味気ない食事同様にこんなにも不味いのかといっそ感嘆するほどだ。
いきんだ拍子にぶり返してきた痛みと口腔に広がる強烈な苦味に、魏無羨は本当に意識が遠ざかるのを感じた。

魏無羨が半ば悶絶するように丹薬を飲み込んだのを見届けてから、藍忘機は脱力した魏無羨を腕の中に抱えながら素早く視線を巡らせた。

「思追」

藍忘機が呼ぶと、門弟たちと仕掛けた縛仙網に捕えられた比較的力の弱い残りの凶屍を片付けていた藍思追がすぐに駆け寄って来る。

「含光君、魏先輩は大丈夫ですか?」

開口一番にそう聞いた藍思追は、藍忘機に命じられたままに縛仙網の凶屍に対峙していたものの、その顔には魏無羨が心配で堪らなかったとはっきりと書かれていた。
呼ばれていながら自ら先に尋ねてしまった無礼を考えている余裕も無いようだ。
尤も、藍忘機の方も今はそんな些末なことを気にしている余裕は無かった。

「屍毒に侵されている」
「屍毒?」

藍思追は途端に顔色を変えた。

「解毒剤はありますか?私たちが携帯している薬類にはありません」

狼狽を滲ませた顔でそう尋ねる藍思追に、藍忘機は静かに首を横に振るだけだった。
それを見た藍思追の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。

凶屍が屍毒を発するまでになるのは余程の怨念が必要だ。
訴状ではそこまで汲み取れなかった上、今回の夜狩は藍忘機と魏無羨が同行する為、さほどの備えをしていなかったことが禍(わざわい)となってしまった。

「霊力を送り込むだけでは足らない。解毒剤が必要だ。すぐに戻る」

藍忘機の言葉に藍思追はしっかりと頷く。

「分かりました。あとは縛仙網の中だけですから大丈夫です」
「決して油断しないように」
「はい」
「終わったら鎮魂の為の『安息』を」
「心得ています」

緊張した面持ちでいながらすっかり頼もしく成長した藍思追の姿に藍忘機は微かに眦を和らげると、またすぐに表情を引き締めて魏無羨の身体を抱え上げ、すっくと立ち上がった。





自らの力では立っていることも出来ない為、藍忘機は魏無羨の体を正面から抱きかかえるようにして御剣していた。
片手で腰を支え、片手でだらりと下がった腕を掴んでいる。
剣の上では均衡を保つ為にも出来るだけ同じ体勢でいることが必要だ。
ただ空中で浮かんでいるだけであればどんな体勢でもさほど影響は無いが、飛行するとなると話は別だった。
触れるほどすぐ目の前で、血の気を失ってみるみるうちに紙のように白くなっていく魏無羨の顔は、金麟台で金凌に腹を刺されたあの時を藍忘機に呼び起こさせた。

だがしかし当の本人である魏無羨がそれを知る由もない。
屍毒が回ったせいか意識を失い、気付いた時には飛行する仙剣の上にいた。

「藍湛……?」
「目覚めたか」

薄膜が張られたようにぼんやりとする頭で目を開けた途端、直接耳朶に注ぎ込まれるような低い声と、視界がぼやけるほどの近過ぎる距離に藍忘機の顔を見留めて魏無羨はにわかに驚いた。
次いで、懐かしい独特の浮遊感を感じて目を瞠る。

「な、んだ?御剣しているのか?」

魏無羨の問いに藍忘機は黙って首肯すると、腰に回していた手に力を入れ、その身体をしっかりと抱え直した。

「!」

その感触に思わずびくりと身体を震わせる。
途端、左脚に鈍い痛みが走り、魏無羨は堪らず藍忘機の肩口へと顔を埋めた。
ぎゅっと目を閉じて痛みを堪え、その波が去るのを待つ。

「魏嬰……」
「……大、丈夫だ」

明らかに狼狽の色を含む藍忘機の声に、魏無羨は漸く顔を上げると微かに笑みを浮かべて見せた。
しかし額にじっとりと脂汗を浮かべたその顔は功を奏さなかったようだ。
眉を寄せた藍忘機の顔にいつもの静謐さは無い。

「魏嬰、寝ていて構わない。身体に障る、大人しくしていろ」

過剰なまでにその身を案じ、深く懊悩するような表情で自分を見つめる藍忘機の様子に魏無羨は居ても立っても居られなくなる。

「藍湛……、なあ、そんなに急がなくて大丈夫だ。これくらいなら宿で休めば」
「駄目だ」

魏無羨の言葉を遮った藍忘機は、続けて「丹薬が足りない」と敢然と言った。
冷ややかにも聞こえるその声には未だ焦燥も感じられる。
少々厄介な屍毒であることは受けた魏無羨が身をもって感じていたが、藍忘機がそうまで言い切るのだから確かに予断を許さない状況であるのだろう。
夜狩には危険がつきものだということは分かっている為、特に修為の低い門弟が付従う時には必ず薬類を携帯しているのだが、効果が高いものはその中には無かったようだ。
決して油断していたわけではないが、今後、夜狩の際に所持する薬類を見直す必要があると魏無羨は鈍い痛みで回らない頭で考えを巡らせていた。

そうは言ってもこの状態はやはり辞さなければならない。
深手は負っていないとは言え、あれだけの数の凶屍の相手をした上に、人ひとり抱えた状態で長時間の御剣を続けることはいくら藍忘機ほど修為の高い仙師であっても相当な負担である筈だ。
おまけに、非常に安定しているので揺れ一つこの身に感じることは無いが、流れる景色を見るからに通常よりもかなり速い速度で飛んでいることが窺える。
このまま一気に雲深不知処まで飛び続けるつもりだろうか。
さすがにそれは無謀過ぎる。
「藍湛、でも、俺を乗せて御剣し続けるのはお前だって負担が」
「寝ていろ。体力を消耗する」
またもや藍忘機に遮られ、魏無羨は小さく嘆息するしかなかった。
同時にその為の丹薬でもあったのかと合点がいった。
確かに屍毒は回っているものの、傷自体は臓腑を貫く急所でも何でもない為、耐えられないほどではない筈なのだが、先程からどうにもこうにも眠くて仕方がない。
次第に指を動かすことすら億劫になる。
飲まされた丹薬には眠りを誘う効能も含まれていたのだろう。
再び薄墨の中を彷徨うように次第に意識が朦朧としていく中、
「藍湛……」
魏無羨はその名を呼びながら静かに瞼を落とした。

※続きはpixivで


一昨日pixivに投稿しました。
こちらも4日ほどでうわーっと一気に勢いのまま書いたものです。
我ながらちょっと頭のネジが飛んでいたのでは……。
お口のみですが結構ガッツリR18なのでpixivで検索してください。
早速、100users入りのタグ付けをして頂きました。
前作『川遊び』に引き続きなかなか良い反応をして頂けて嬉しい限りです。
人さまのお話をたくさん読んでいるわけではありませんが、他ではあまり見ない、まるで見てきたかのような仔細の描写は我ながら変態くさいですが書いている時はひたすら無です。
藍湛の藍湛と萎えている時の描写が好きな人……。
次は知己に戻ります。
ずっとぼんやりしてあまりイメージ出来なかった知己越えが浮かんできたのでこちらもいずれ書きたいなと思っています。
痛々しくて重くて優しくて甘い知己越えが良い(自分でハードルを上げた)



cql忘羨(字幕版)、香炉if後の座学if 。
今回はお口のみですが、なかなかはしたないことになっています。
蔵書閣で自分を見つめる藍湛の視線に気づいた魏嬰が「俺としたい?」と煽ると……。

『渇欲』『川遊び』のその後です。
お互いの気持ちが通じ合うところまでいっています。
何かを察した兄上も少しだけ登場します。

無邪気で天真爛漫な座学時代ならではの小悪魔魏嬰です。
煽るくせにやたら恥ずかしがる魏嬰に藍湛の心中は穏やかではいられない筈です。
煽る、恥ずかしがる、煽るの繰り返しです。
『川遊び』でだいぶ暴走してしまったので、今回は少し藍湛を落ち着かせてみました。
どちらにもなかなかはしたない台詞を言わせてしまって何より自分が驚いています……。

cqlでは蔵書閣の懲罰は3日のようですが、こちらはもう少し長め、座学自体は3ヶ月くらいのイメージで書いています。

何となく続いた香炉ifと知己は違う時間軸ですが、重なる部分もあると考えているので、あれ、これは?と思って頂けると嬉しいです。

仄暗いお話も大好きですが、やはり最後は優しい気持ちになれる忘羨が好きなのでこのようなお話になりました。
少しでも楽しんで頂けると幸いです。

またcql忘羨を投稿しました。
がっつりR18なのでpixivで検索してください。

cql忘羨、香炉if後の座学if。
夏なので川でいたしています。
懐桑らと川遊びに興じている魏嬰を見つけた藍湛は、嫉妬と欲情に駆られ……。
『渇欲』のその後です。

前回は魏嬰に煽られて先に音を上げた藍湛でしたが今回はしっかり頑張りました。
原作寄りのだいぶ嗜虐的な行為になってしまいましたがどうでしょう。
吹っ切れて興に乗って少々変質的な描写になってしまったような気がしないでもなく……。

川でただいたしているだけのお話のつもりでしたが、どうしても藍湛視点にすると重たくなりがちです。
恋情と分かっているけど分からない認めたくない、でも執着や独占欲は自覚していて、心と身体とがバラバラでひたすらぐるぐるしている思春期藍湛です。

藍湛に言わせたかった台詞は「○○ていい」
その前後の魏嬰の台詞と、口元を覆って声を我慢する魏嬰も書きたかったところです。
cqlに登場する川べりの風景を思い浮かべてお楽しみ頂けると幸いです。





「四葩の夢」






キン。
キン、キン。

激しく打ち付ける雨粒が避塵に当たり、澄んだ鋭い音を奏でる。
爪の先が白くなるほどに握り締めた硬い鞘の感触だけが、今は頼りだった。
縋るようにそれを強く握り締め、ただ真っ直ぐに雨の中に佇む馬上の彼を見つめる。
視界を遮る程の雨粒が傘を打つ音がひどく耳障りだ。
これでは彼の声が聞こえない。
だがそれでも、

「藍湛、阻むのか?」

優しく責めるように問われたその言葉は、確かに藍忘機の耳に届いていた。


彼を傷つけることなど出来る筈も無い。
けれども、そうしてでも彼を引き留めたい。
それから雲深不知処に連れ帰り、隠してしまいたい。
そう思ったのも事実だった。
あの時、どれほど考えただろうか。
実際は半炷香も無かった筈だが、藍忘機にはあの時間がまるで永遠に終わりが来ないのではないかと思えるほどに長く感じられた。

幼い頃から思いを言葉にすることが不得手だった藍忘機だが、この時ほど己の性分にもどかしさを感じたことは無かった。
何故、止められない。
何故、この想いを言葉に出来ない。
溢れるほどの胸の内を言葉にする術すら知らない自分の愚かさをただひたすらに悔いた。

けれどあの時、大きな黒い両の目に溢れんばかりの涙をいっぱいに浮かべて切情を訴える魏無羨に、あれ以上、一体何が言えただろうか。
何を言葉にしても彼には届かない。

死んだところで、自分の手で死ねるのであれば悔いはない。
そう告げた魏無羨をただ呆然と見上げることしか出来なかった。
そして陳情を手にした決意の彼の顔を見た時、もう他に道は無いのだと悟った。

そう思ったからこそ、藍忘機は剣を抜いたのだ。


傘を傾け地面に落とすと、ゆっくりと避塵の柄へと手をかける。
馴れ親しんだ硬く冷たいその感触に微かに肌が粟立った。
五指で強くそれを握り締める藍忘機のその姿に、

「藍湛……」

編笠の下で魏無羨が目を瞠るのが分かった。

「魏嬰、行くな」

とうとう口にすることが出来なかった言葉が溢れた。 
これが最後だと思えば、どうしてかすんなりと言葉にすることが出来た。

「藍湛……、お前が俺を救ってくれるのか?」

そう言った魏無羨は、涙を浮かべながら微かに笑っていた。
お前にそれが出来るのかと問われているようだった。
実際、そう問うていたのだろう。
彼が救うと決めた者たち全てを纏めて自分を救うことが出来るのか、と。

だから、藍忘機は剣を抜いて応えた。
あの時の誓いを違えることになっても構わない。
今、救いたいのはお前だけだ。
それを伝える為に。

「……魏嬰、馬を降りよ」

藍忘機の言葉に、魏無羨は最早、滂沱の涙を流していた。
編笠から伝う雨とも涙ともつかぬ雫が彼の頬をしとどに濡らす。

やがて魏無羨は馬上からその身をすらりと降ろすと、もう殆ど役に立っていない編笠を投げ捨て、ゆっくりと陳情を口元に構えた。
滝のように激しく打ち付ける雨の音の中、重々しい笛の音が響き渡る。
ゆらりと墨を刷いたように瘴気が立ち昇っていく。

次の瞬間、藍忘機はぬかるむ地面を蹴り、一気に距離を詰めると、容赦なく避塵を振るった。
魏無羨は仰け反るようにしてその一閃を避け、藍忘機がすぐさま返した剣尖を今度は陳情で受けて払い除ける。

激しい攻防だった。
避塵から放たれる青い剣芒と、陳情から放たれる黒い瘴気が入り乱れるようにして絡み合う。
鋭く澄んだ刃の音と禍々しい笛の音。
繰り返し剣尖を向ける藍忘機と、それを受け、避けながら陳情を奏でる魏無羨。

しかし、その結果は火を見るよりも明らかだった。
陳情があるとは言え、剣を持たず、防戦一方の魏無羨に元より勝機は無い。

避塵の剣尖が魏無羨の喉元を掠め、それを避ける為に後ろに飛び退った彼が僅かに足元を崩したのを藍忘機は見逃さなかった。
手首を返して剣首で魏無羨の胸を強く打つと、その衝撃で膝を折った彼の背後に回り込み、首筋にも更に一撃を打ち込んだ。

そうして腕の中に落ちてきたその身を掻き抱く。
雨に打たれ続けた身体は芯から冷えて驚く程に冷たい。
微かに首筋にかかる息遣いの温かさだけが、彼が生きていることを伝えていた。

もしかすると初めから彼にはその気など無かったのかもしれない。
此処で藍忘機の手に依って絶たれることが本当の望みだったのだろうか。
いっそそう思えるほど、結末は呆気なかった。

もう二度と離さない。
このまま雲深不知処に連れて帰ろう。
そうしてそのまま誰の目にも触れさせず、隠してしまおう。
これでもう、彼は自分だけのものになる。

そう思いながら、強く、強く、藍忘機はただその身体を強く抱き締めていた。


(違う)

唐突に藍忘機の頭の中に声が響いた。

(これはあの時の記憶ではない)

そう感じた瞬間、どろりと溶けるように魏無羨の身体が腕の中から崩れ落ちて跡形もなく消えた。

「魏嬰……っ!」

悲鳴にも似た藍忘機の叫びが闇夜に響き渡る。
雨の音が無情にもそれを掻き消していく。
五指を開いたその掌は、真っ黒い淤泥(おでい)に塗れて汚れていた。
どす黒い塊がぼたぼたと指の隙間から零れ落ち、やがて、その指までもが闇に溶けるようにして消えて無くなった。





「藍湛」

名を呼ばれたような気がした。
重い泥濘の底を揺蕩っていたような深い眠りからゆっくりと目覚める。
四肢を押さえ付けられていたかのような強い倦怠感が、指先から、足先から、静かに引いていく。

「藍湛、起きたか?」

頭上から降り注いだ声に重く閉ざしていた瞼をようよう持ち上げると、僅かに眉根を寄せた魏無羨の顔がそこにあった。
白い日差しが彼の顔を明るく照らしている。

「魏嬰……」

名を呼ぶと、漸くその顔に笑みが浮かんだ。
見慣れた魏無羨の顔に藍忘機は小さく息をつく。
そうして、夢を見ていたのだと気付いた。

横たえていた身体を起こし、傍らの円窓の外を見やると、草木は濡れていたがもう雨は上がって、見上げた先には晴れ晴れとした青空が拡がっていた。
どうやら雨の音を聴きながら眠っていたせいで、あんな夢を見たようだ。

姑蘇に隣接する仙門世家からの訴状を受けて夜狩に出ていた藍忘機が雲深不知処に戻ったのは午の刻だった。
さほど時間もかからず解決した為、そのまま馬を走らせて戻って来たのだが、夜中(よるじゅう)一睡も出来なかったことには変わりなく、身なりを整えた後、束の間の午睡を取っていたことを藍忘機は思い出した。

ゆっくりと首を巡らすと、牀榻の枕元に膝を立てて座り、自分を見上げていた魏無羨と視線が重なった。
時を置かずして、

「藍湛、お帰り」

魏無羨がそう言って笑った。
眩しい陽光のようなその笑顔に、藍忘機の眦も自然と下がる。
僅かに早まっていた鼓動が次第に落ち着いていくのが分かった。
藍忘機の方が先に此処にいて迎える側であるにも関わらず、当たり前のようにその言葉を口にする魏無羨にどこか面映ゆい気持ちになる。
藍忘機は黙って首肯を返すと

「お前も」

そう、言った。
すると魏無羨の顔にたちまち笑みが広がる。

「うん、ただいま」

ごく自然とそう笑う彼の顔が眩しい。
此処が彼の帰る場所になっていることがこの上なく嬉しかった。
何気なく交わされる言葉の一つでしかないのだが、その意味は感慨深い。

不意に、魏無羨の顔から笑みが消えた。
そうして真顔のまま指先を伸ばすと、

「……藍湛、どうした?辛い夢でも見てたのか?」

目を眇め、微かに憂いを滲ませた表情で藍忘機を見上げた。
伸ばした指先で目元を拭われ、初めて自分が涙を流していたことを知る。
一筋の涙が流れた跡をなぞるようにして魏無羨の少しかさついた指先が頬を撫でた。

おもむろにその手を掴み、その温もりを掌に感じる。
先程まで子弟たちの鍛錬にでも付き合っていたのだろう。
はたまた裏山で兎を追いかけて走り回っていたのか。
常よりも僅かに高い体温がじわりと拡がって、藍忘機の心を穏やかに満たした。

「……いや」

藍忘機は小さく首を横に振ると、

「所詮、夢だ」

そう言って微かに口元に笑みを浮かべて見せた。
それから自分に言い聞かせるように、もう一度「夢だった」と繰り返す。

「……そうか?」

そう言いながらもまだ何処か心配そうな表情を浮かべた魏無羨の顔に、藍忘機は堪らず目を細めた。
握った手に僅かに力を込めてから、そっとその手を彼のもとへと戻す。


あの日の夢だった。
全ての始まりでもあった雨の中の窮奇道の別れ。
あの時、どうしてあのまま行かせてしまったのか。
十六年もの間、何度も何度も悔いては繰り返し見た夢。
悔いても悔いてもこの悔恨に終わりはない。

だがしかし、今となってはそれがあったから今があるのだと思える。
あの時、引き留めていたら何かが変わっていたかもしれない。
けれどそれはもしかしたら今に繋がらなかったかもしれない。
考えても考えても終わりは無く、きっと永遠にその答えは見つからない。

ただ一つ言えることは、今、彼がここに在るのが現(うつつ)だということだ。
過去は過去。
夢は夢。
今ある現があればそれで良い。
彼が生きて此処にいることを感じられる日々が、今、此処に彼がいることが紛れもない現なのだ。

「魏嬰、大丈夫だ」

藍忘機がそう言うと、魏無羨はそれ以上は問わず、うんと小さく頷いた。


ふと、魏無羨の足元に置かれた篭から溢れる紫の花が目に入った。
静室に飾る為に門弟が届けてくれる花とも違う、何処か無造作に篭に入れられたその花は、淡い色の布帛(ふはく)でまとめられた静室の設えに鮮やかな色を添えていた。

「それは?」

視線で問うと、魏無羨はぱっと篭から一房を取り上げ、まだ雨粒を纏った瑞々しいそれを藍忘機の目の前についと差し出した。

「ああ、四葩(よひら)だ。裏山に咲いていた。綺麗だろ?」

雨で枝が折れていたみたいだから静室に飾ろうと思って、そう続けた魏無羨の言葉に藍忘機は思わず顔を綻ばせる。
粗雑でいながら存外優しいところがある男だと思う。 
自ら手折ることをしない優しさはきっと彼の性分だ。

大きな手毬のような花をくるくると回していた魏無羨は、再びそれを篭に戻すと、身を乗り出すようにして尋ねた。

「なあ藍湛、夜狩はどうだった?話を聞かせてくれ。俺も話したいことが沢山あるんだ」

自分の方がよっぽど話したいことがあるのだろう。
うずうずとしたその様子に、

「お前から」

先に話すように促すと、「そうか?」と言って魏無羨は牀榻の端に肘を着き、藍忘機を見上げながら楽しそうに話し始めた。

「今日は下の子たちの弓の修練に付き合っていたんだ。面白いぞ、藍先生が見ていたら腰を抜かしていた筈だ」

そう言って話す前からくつくつと笑いを零す魏無羨の姿に、藍忘機は例えようの無いほどの多幸感を感じた。

まだ腰を落ち着けて間もない彼が此処に馴染んでいることが嬉しい。
特に年少の門弟たちは羨哥哥と呼んですっかり魏無羨に懐いている。
そう呼ばれることに何処か照れくさそうにしている魏無羨だが、今日もそんな子供たちに強請られて得意な弓を教えてやっていたのだろう。
何をやったのか一抹の不安を覚えつつも、もうあの頃とは違う魏無羨が本当に叔父を怒らせるような真似は決してしない筈だ。
あの頃と違うのは藍忘機も同じで、彼のやることなすことに眉を吊り上げていたかつての自分はもういない。

生き生きと語る魏無羨の姿に藍忘機は自然と眦を和らげる。
続きを促すように視線を向けると、夏の日差しのような眩しいばかりの笑顔を浮かべて魏無羨は言葉を継げた。

「藍湛、あのな」

軽やかに笑うその声が耳に心地よい。
今ここに、彼がいるのだとはっきりと感じられる。

そんな彼の笑い声を聞いていると、もうきっとあの時の夢は見ないだろう、不思議とそう思えた。







『四葩-よひら-の夢』

50話以降のcql知己忘羨(字幕版)です。
魏嬰が遊歴から戻って間もないとある雨上がりの午後。
窮奇道での別れを夢に見た藍湛が午睡から目覚めると、そこには魏嬰がいて……。
夢の中のお話と目覚めた後のお話です。

紫陽花の別名の四葩(よひら)という響きが好きで、先に浮かんだタイトルから書いたお話です。
紫陽花の花言葉の『辛抱強い愛情』は藍湛そのものだと思います。

箸休め的な軽いお話にしようと思いましたが、藍湛視点にしたところ思わぬ方向にいってしまいました。
魏嬰のいない16年間、藍湛は様々な夢を繰り返し見て苦しんでいたのだろうなと思います。
悔いても悔いても二度と戻ることは出来ない後悔は数あれど、けれど魏嬰が蘇ってからは共にある今を大切に思っているのではないかとも思います。

少し重いお話になってしまいましたが、目覚めた後はいつもの忘羨です。
夢との対比が表現出来ていたら良いのですが……。
しかし知己なのにすぐ触れようとするのはどうしたものでしょう。
気付くと直ぐにお互い触れていますがまだまだ知己知己です。






『二年目の梅酒の話』







透き通った淡い琥珀が陽光に揺らめく。

甘やかで芳醇な香り。
まろやかでこくのある豊かな味わい。
やわらかな舌触りは絹のようでどこまでもなめらかだ。

「好喝」

一年熟成された極上の梅酒で満たした青白磁の杯を傾けながら、魏無羨は翠雨の露をまとった青梅を手の中で転がしていた。

開け放した格子戸の向こうでは、青々とした新緑の葉に滴る雫が陽の光を浴びて玉のように煌々と輝いている。
さあさあと降り続く雨が奏でる軽やかな音階が耳に心地よい。

ほんのり赤みが差した若梅は青々とした芳しい香りを放ち、天鵞絨 のような肌触りはついつい指を滑らせたくなる。
ひとしきり手のなかで転がして感触を楽しんだ後、突然の通り雨に濡れてしまったその実を脇に除けると、魏無羨は筵に広げた乾いた別の梅の実を手に取り、また一つ、竹串の先でへたを飛ばす。
ぴんと弾かれるようにして露台へと飛んだそれは、明日にはきっと鶲に啄まれて無くなっているに違いない。
へたを取った実は乾いた笊に並べていく。

露台に続く静室の床の上に広げた筵には、一面の青梅が転がっていた。
みずみずしい萌黄色にほんのりと薄紅がさした梅の実はまるまるとしてどこか愛らしい。
昨日、雲深不知処の裏山で採れたばかりのそれは、魏無羨が梅酒を漬ける為に用意したものだ。
年端も行かない門弟たちを連れて山に入り、たわわに実った青梅を篭いっぱいに摘み取った。
半分ほどは酒が飲めない子どもたち向けの砂糖漬けにする為に厨に渡し、残りの半分を静室に持ち帰ってきたのだ。

この梅は大きい。
この梅は小ぶりだが香りが良い。
と、ひとつひとつ丁寧にへたを取りながら、魏無羨は次第に晴れていく空を見上げた。
翳る間もなく突然降り出した通り雨はもう既に上がっている。
雨上がりの日差しが今は眩しいほどだ。
庭先の青々とした木々の葉から滴る翠雨の雫が陽光に煌めく様を見やりながら、魏無羨は何処か待ち遠しげに、此処にはいない男のことを考えていた。 

藍忘機が雲深不知処を出て今日で七日になる。
仙門世家を纏め上げる重責を担ったその身は多忙を極め、仙督としての用向きで各地に呼ばれることも多く、来訪を望む嘆願の雁信は枚挙にいとまがない。
朝から晩まで執務に追われ、その合間に子弟たちの為に教えを説き、必要とあらば夜狩へと赴く。
この雲深不知処に居を置いて一年ばかりになるが、数日顔を合わせないこともざらにあり、その多忙さは魏無羨も身をもって知っていた。

そんな藍忘機が様々な用向きで雲深不知処を空けて遠方に赴く際、よほどのことが無ければ事前に告げられた日にちよりも早く帰ることが殆どだった。
五日かかると言えば四日で帰って来るし、四日かかると言えば三日で帰って来る。 
もともと人の多い場所や余人との接触を好まない性分の為、慣れ親しんだ雲深不知処の居心地が良いのだろうと魏無羨は思っていた。
それがそこにいる人に会いたいが為とは露ほども思っていない。

今回は清河での清談会であり、十日ほど空けると聞いていたので、早くて明日、遅くとも明後日には帰って来るに違いないと踏んでいた。 
夜狩で赴くわけではない為、霊力を温存する必要もなく、御剣を使えば行き帰りは格段に早くなる。
それでも、ただ何となく、もしかするともう少し早く帰って来るのではないかとも思っていた。
何より魏無羨が藍忘機に会いたいと思っていた。
顔を合わせることがなくとも、静室で共に暮らしていれば日々の節々にその存在を感じることが出来るが、不在の際はそれが叶わない。
藍忘機が此処にいないというだけで、どうしてかうら寂しい心持ちになるのだ。


そんなことを考えながら一炷香ほどへたを取り続け、大笊にずらりと梅の実が並んだ時だった。 
視界の端に新緑の木立に囲まれた影竹堂の門を潜り抜ける白衣を纏った姿を見留め、魏無羨は弾かれたように立ち上がった。

「藍湛っ!」

その声にゆるやかに面(おもて)を上げたのは、待ち侘びていた藍忘機その人だった。
ゆっくりと通り雨に濡れた飛石の上に歩みを進めるその姿に魏無羨は足取りも軽やかに駆け寄ると、

「藍湛、お帰り」

そう言って笑いかけた。
うんと首肯する藍忘機の顔にも淡い笑みが浮かんでいる。
久しぶりに見る顔は長旅の僅かな疲労も感じさせないほどに相も変わらず美しい。
七日ぶりということもあり、その顔を見るだけで自然と笑みがこぼれてしまうのを魏無羨は止められなかった。

「さっきまでの通り雨が上がったのはお前が帰って来たからかな。お前が太陽を連れて来たみたいだ」

思いがけず藍忘機が早く帰って来たことが嬉しくて、意図せずにその体ははしゃぐようにゆらゆらと動いてしまう。
豊かな黒髪を結い上げた真っ赤な髪紐が、背中であちらこちらに向かって跳ねるように揺れていた。

「藍湛、随分早かったな。十日かかるって言ってなかったか?」

予想していたよりも更に早く戻ったことを不思議に思い、首を傾げて問いかける魏無羨に、

「早く終わった」

藍忘機はそう短く返すに留まった。

年に一度、仙門百家が集まる清談会が予定より早く終わる筈もない。
漸く安寧の世となった今でも各地での邪祟の発生は後を絶たず、その報告や討議だけでもそれなりに時間はかかる上、清河での挙行は数年ぶりだったこともあり、宗主である聶懐桑が用意した数々のおもてなしと酒宴は聶氏再興を知らしめる為にも必要で、贅を尽くしたものだったに違いない。
尤も、そういった酒宴を好まない藍忘機が後期三日三晩は続く酒宴に参列することが辛苦以外の何ものでもないことは想像に難くない。
その為、藍氏として、仙督として顔を立てる為に前二日は参列し、最後の酒宴は辞退して一日早く帰って来るだろうと予想していたのだ。

しかしそんな些末なことは今はどうでも良い。
こうして藍忘機が此処にいることが魏無羨は嬉しかった。

「そうか、俺も早く会いたいと思っていたんだ」

零れた本音を屈託ない笑みと共に告げる魏無羨に、藍忘機が面映ゆそうに小さく頷く。
重なり合う視線が優しく、魏無羨はたちまち自分が発した言葉に気恥ずかしさを感じた。
随分とあけすけなことを言ってしまったものだ。
常であればいつもの戯言と流して気にもならないのだが、こうして久方ぶりに顔を合わせるとどうにもこそばゆい。

次いで何を言おうかともごもごと口を動かしながら視線を彷徨わせていると、ふと、藍忘機の白衣の袂から覗いている房飾りに目が留まった。
その手にある、薄墨色の風雅な陶器に濡羽色の結紐をかけた酒壺には見覚えがある。
魏無羨の視線に気付き、

「土産だ」

そう言ってそれを掲げて見せた藍忘機の顔には微かな笑みが浮かんでいた。

「叢台酒じゃないか!」

魏無羨は思わず声を大きくした。

遊歴中に出会ったその酒を先の夜狩で邯鄲かんたんに出向いた際に久方ぶりに味わい、魏無羨がいたく気に入っていたのを覚えていたのだろう。
手に提げているのは二口(こう)だが、乾坤袖にはまだ十口ほど収まっているに違いない。
わざわざ二口を手に提げて持ち帰るのは、喜色満面の笑みを浮かべて喜ぶ魏無羨の顔が見たいが為だということを当の本人は知る由もない。
はたして想像通りの反応だったのだろう。
藍忘機の顔は何処か満足げだった。

「この前の夜狩以来だな。あの時はあまり持ち帰れなかったからまた飲みたいと思っていたんだ」

不浄世から邯鄲まではそれなりに距離があるのだが、清談会の合間を見てわざわざ足を運んでくれたのだろう。
邯鄲の町の酒舗で、一人、叢台酒を買う藍忘機の姿を思い浮かべただけで、魏無羨は堪らなくあたたかい気持ちになった。
こうして何くれとなく自分を気にかけてくれる藍忘機の気持ちが嬉しい。
何故、どうして、という疑問はもうなくなっていた。
そこに見返りを求められているわけでもない。
魏無羨がそうであるように、藍忘機も自分を思ってくれているだけなのだ。
一年余りを共に過ごし、今や魏無羨はその気持ちを素直に受け止められるようになっていた。

だから、伝える言葉は一つしかない。

「藍湛、ありがとう」

魏無羨の言葉に藍忘機は変わらず鷹揚と頷くだけだった。
そんな藍忘機の手から叢台酒の壺を受け取ると、

「でもこれを飲むのは夜にしよう。今日は特別な酒を開けていたんだ」

魏無羨は藍忘機の腕を掴んで静室へと誘いざなった。
いつものように片手を背中に回したまま悠々と足を進める藍忘機を急かすようにして、魏無羨は階きざはしを上がり露台へと藍忘機を導く。
開け放した格子戸の中、室内に広げた筵や笊いっぱいの梅の実を見やった藍忘機が、

「これは?」

そう聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに胸を反らし、

「梅酒を漬ける」

魏無羨は意気揚々と答えた。
そうして青々とした梅の実を見下ろしたままそこに佇む藍忘機の脇を擦り抜けると、卓の上に置いた白磁の甕から琥珀色の梅酒を柄杓で掬い取り、杯になみなみと注ぐ。

「なあ、藍湛。せっかくだ、呑まないか?」

勢いよく掲げた拍子に杯から零れ落ちた滴が衣の袖を濡らしたが、それを気にかけることもなく魏無羨はどかりと卓の前に腰を下ろした。

「去年漬けた梅酒だ。一年経って熟成されていい味になってる。梅酒は氷砂糖を入れて漬けるから甘くて飲みやすいんだ。酒が苦手なお前でも飲めると思うぞ?」

そもそも藍忘機が酒に弱いのはその味のせいではないと思うのだが、何となく、そう言えば飲んでくれるのではないかという気がした。

「砂糖が必要なのか?酒なのに?」

不思議そうに首を傾げる藍忘機はどこか幼く、頑是ない子供のような顔をしている。
今や仙の域とも言われるほどの、この世の全てを知っているような男にも知らないものがあるのかと思うと、たちまち魏無羨は楽しい気分になった。

「うん、砂糖を入れないと果汁が沁み出ないから味も香りも全く違うんだ。蓮花塢にいた頃、いろいろ試したんだけどやっぱり梅酒だけは砂糖入りじゃないと美味くなかった。それもただの砂糖じゃなくて黄氷糖でないと駄目だな」

そう言って卓の脇に並べていた龜から淡黄色の小石ほどの結晶を掴み取って見せる。

「綺麗だろ?」

陽の光を浴びて眩いばかりに輝くそれは、まるで温かい色の玉のようだった。

「洗った梅と黄氷糖を龜に入れて、あとは天子笑を注ぐだけだ。三月くらいで飲めるがもっと寝かせたほうが断然美味い」

カラカラと手の中の黄氷糖を再び龜に戻しながら、

「ちょうど一年前に漬けた梅酒を味わいながら今年の梅酒を漬けるなんて粋だろ?」

そう言って魏無羨は笑った。

櫟陽の宿で酔った藍忘機が数々の寄行に走った際に、二度と酒は飲ませまいと誓ったことを魏無羨はすっかり忘れているわけではなかったが、どうしてかこの酒は藍忘機に飲んでもらいたいと思った。

静室で共に暮らすようになって一年(ひととせ)。
魏無羨が遊歴から戻って間もない頃、初めて漬けたのがこの梅酒だ。
雲深不知処の裏山を散策している時にたわわに実をつける梅の木を見つけ、姑蘇の名酒である天子笑で漬けた。
そう言えばあの時は仙督の用向きで藍忘機が出掛けていた時だった。
留守の間に漬けた梅酒は寝かせる為にすぐに床下に収めてしまった為、作った話だけを後からしたのだ。
しかしそこは藍忘機だ。
魏無羨が忘れていたそのことを藍忘機が忘れている筈もなく、そうだったとばかりに頷いている。
作る工程を見るのは初めてだった為、先の問いになったのだろう。
あの時は一人だったことを考えると、藍忘機と時を共にしながらニ年目の梅酒を作れるのは望外の僥倖で、喜びもひとしおだった。

「な、藍湛。清談会から戻ったばかりで今日はもうさすがに執務もないだろ?いいから飲んでみろ」

言葉巧みに誘う魏無羨に促されるままに藍忘機は卓の向かい側へと回ると、裾を広げ、袂を払って、優雅な所作で腰を下ろした。
手の中で揺らめく琥珀を暫し眺めた後(のち)、しなやかな手付きで青白磁の杯を持った藍忘機は、楚々とした見た目に反する豪快さで一気にそれを煽った。
そうして間もなく、ぱたりとその顔を卓へと伏せてしまう。

「ははははは、藍湛、やっぱりそうか!」

思わず無遠慮な笑い声を上げる魏無羨を厭うこともなく、藍忘機は白い頬に長い睫毛の影を落としたまま微動だにしなかった。
出会った頃から変わらず酒に弱い。
その酔い方も全く同じで、杯を空けるとまずは眠りに落ちてしまう。
うわばみの魏無羨にはたかだか一杯でこうまで酔えることも不思議だが、かつて出会ったこともない奇妙な酔い方は何度見ても愉快でこの上なかった。

「藍湛、藍湛っ」

ぺちぺちと指の背で藍忘機の滑らかな頬を叩きながら、魏無羨は杯を片手にその美しい寝顔を存分に味わった。
無防備な姿は自分だけに見せる特別なものだと知っている。
酔っても顔色一つ変わらない藍忘機だが、しかしこうして間近で見ると、その目元や形の良い耳が微かに淡紅色に染まっているのが見て取れる。
それは玉のように透き通った白い肌とはいかにも対照的で、時に作りものめいて見える白皙の美貌を常人たらしめていた。

「ふふっ」

思わず零れる笑いが葉擦れの音に混ざって消えていく。
穏やかに流れる時を感じながら、

「藍湛」

魏無羨は藍忘機の寝顔を見つめながら三度(みたび)その名を呼んだ。


暫くの間は目を覚まさないであろう藍忘機の姿を横目に、魏無羨は床の上に広げていた梅の実を筵ごと卓の脇へと引き寄せると、再びへた取りを再開することにした。
ころころと転がる青梅を手遊びながら、一つ、また一つと竹串で器用にへたを飛ばしていく。
鼻歌混じりに作業を繰り返し、半炷香もしない時だった。
ぴんと弾かれたへたが筵とは逆の方向に飛んでしまい、それは偶然にも藍忘機の白い頬へと当たって落ちた。
卓に肘をつき、片膝を立てて一心に動かしていた竹串を持つ手が思わず止まる。
そうして覗き込むようにしてその顔を見やると、案の定、折りよく藍忘機が目を覚ましたところだった。

「藍湛、起きたか?」

まだ虚ろなその顔は、目が覚めただけで酔いが醒めたわけではないのは明らかだ。
鋭い眼光はなりをひそめ、焦点の合わない双眸はとろりとしている。

「藍湛?」

あまりの無防備さに魏無羨は楽しげに呼び掛けた。
返事は無いが、名を呼ばれる度にぱちぱちと音がしそうなほどの瞬きを繰り返すのが何処か可愛らしい。

「藍湛、おーい?」

そうして幾度となく名を呼び、手にした竹串をゆらゆらと目の前で振ったりとしていた時だった。
おもむろに伸びた藍忘機の手が魏無羨の左手をはっしと掴むと、

「……手が冷たい」

唐突にそう言った。
自分を真っ直ぐに射るように見つめるその眼差しは思いがけず真剣だ。

『何故、手なんだ?』

藍忘機の突飛な言動に大きな目で瞬きを繰り返した魏無羨は、ふとそれに思い当たる。
傍らにずらりと並べた甕を見やりながら、通り雨が降る前にそれらを洗った井戸水の冷たさを魏無羨は思い出した。

「ああ、さっきまで甕を洗っていたからな。雲深不知処の水は冷たいよな」

冷泉ほどではないとは言え、もうすぐそこに夏も近づいているこの時期に指先を浸し続けることも難しい水の冷たさはなかなかに堪えた。
確かに少し念入りに洗っていたのは否めず、時間をかけ過ぎていたのかもしれない。

「冷やしてはいけない」

憂慮の表情を浮かべてやけに真剣な眼差しで魏無羨を見つめる藍忘機が、その手に力を込めた。

「そんなに冷たいか?」
「指先が冷たい」

藍忘機は神妙な面持ちで魏無羨の手をずっと握りしめている。
玉のように白く透き通る長い指は嫋やかに見えるが節が目立ち、その掌は大きく雄々しくもあり、身丈もさほど変わらず決して小さくは無い魏無羨の手をすっぽりと包んでしまう。
掌の皮は硬く、それは紛れもない剣を握る男の手だった。
この手に幾度となく助けられ、支えされたことは数知れない。

「……藍湛、離してくれないか?」

あまりにしっかりと握られている為、魏無羨は乞うようにそう聞いてみたが、藍忘機は小さく首を横に振るだけだった。
それどころかやにわにもう片方の手が重ねられ、両手で更にしっかりと握られてしまった。

藍忘機の唐突な行動に苦笑を浮かべながら、ふとその理由に思い至る。

「もしかして、温めてくれているのか?」

魏無羨の問いに、藍忘機は間髪をいれずにうんと首肯した。

「ははっ、藍湛、お前ってやつは」

あまりにも可愛らしい藍忘機の行動に魏無羨は堪らず破顔していた。
どちらかと言えば体温が高いのは魏無羨の方で、水を使って多少冷えていたとはいえ、普段からひんやりとした手を持つ藍忘機の手よりは十分に温かい。
こうして手を握られていると寧ろ熱を与えられていると言うよりは与えているようだ。
温かい魏無羨の手と冷たい藍忘機の手の体温が混ざり合い、互いにゆるやかに伝わっていくのが分かる。
それはひどく心地のよい感覚だった。

藍忘機に大人しく手を握られたまま、魏無羨はにこにこと藍忘機の顔を見つめる。
藍忘機もまた、神妙な面持ちのまま魏無羨を見つめていた。
そうしておもむろに、

「一年経った」

ぽつりとそう呟く。

「そうだな、早いよな。また姑蘇の梅酒が作れるなんて嬉しいよ。天子笑の梅酒とはこれ以上ないくらいに贅沢だ。来年も楽しみだな」
「来年……」

小さな子供のように魏無羨の言葉を繰り返す藍忘機は当然のことながらまだしたたかに酔っているようで、真面目くさった顔をしていながらこんな時は何処か素直にも見える。
ふと、魏無羨はそれを聞いてみたくなった。

「なあ、何でこんなに早く帰って来たんだ?」

俺に会いたかったのか?と軽口を叩く魏無羨に、藍忘機は時を置かずして真顔で頷いた。
酔った時の藍忘機は実に簡明直截だ。
自分で聞いておきながらどうにも照れくさい気持ちを抑えられず、魏無羨が視線を彷徨わせていると、今度は藍忘機が尋ねた。

「今日という日が何の日か?」

知っているかと問われて、首を振る。
何の日かと聞かれて魏無羨が答えられるのは祭が行われるような節句の日くらいだろう。
それも町中で飾り付けが始まったのを見て漸くそうだと気付くのだ。
それくらい魏無羨は暦の何たるかにひと欠片も興味がない。

暫しの沈黙の後、

「お前は本当に物覚えが悪い」

しみじみ呟いて小さく嘆息する藍忘機に、魏無羨は顔を顰めて鼻白んだ。

「今に始まったことじゃないだろ」

魏無羨の物覚えの悪さは筋金入りで、何よりそれを一番よく知っているのは藍忘機だ。
何を今更言うのかと鼻の頭に皺を寄せながら口を尖らせていると、

「一年だ」

藍忘機が再びそう言った。

「今日で一年だ。私がこの日を忘れることは一生涯ない」

あまりに真剣な面持ちで真摯に告げられた言葉に、魏無羨は真顔で藍忘機を見返した。
そうして時を置かずしてその答えに辿り着く。

「……俺が遊歴から戻った日か?」
「そう」

おずおずとそれを口にした魏無羨に、藍忘機は何の躊躇いもなく頷いた。

漬けた梅酒が一年経った。
あの日も梅雨入り間近のよく晴れた初夏の日だった。
魏無羨とて全てを忘れているわけではない。 
魏無羨にとってもあの日は特別だ。
だがそれでも物覚えが悪いのは今に始まったことではなく、大体一年くらいという認識でしかなかった。

考えてみれば藍忘機がそれを忘れている筈もない。
思い返せば清河に旅立つ際、何処かもの言いたげな表情で見送る魏無羨を見つめていた。
いつもはすんなりと出て行く藍忘機が僅かに躊躇いを見せていたのはこの為だったのかと、魏無羨はこの時漸く悟った。

「魏嬰」

囁くように名を呼ぶ藍忘機の声が優しい。
そうしてたっぷり間を置いてから、

「この先もお前と共にありたい」

掻き口説くように告げられた飾り気のない無骨なそれは、けれどどんな言葉よりも魏無羨の心を震わせた。

一年(ひととせ)という決して短くはない時間を共に過ごしてきた。
一処にじっとしていられない性分の魏無羨が此処に居続ける理由はたった一つしか無い。
魏無羨ももうとっくにその理由に気付いていた。
何より此処に戻ることを選択したのは魏無羨自身に他ならない。

けれどこの想いにつける名前を魏無羨はまだ知らない。
それでも、これだけは伝えたいと思う。
たとえ明日には藍忘機が一切忘れているとしても、今伝えたい。
伝えなければならないと思った。

「藍湛」

名を呼ぶ声が微かに震えていた。

「来年も再来年も、三年後も五年後も十年後も、ずっとずっと、お前のそばにいる。何より俺がお前といたいんだ」

だから、と魏無羨は言葉を続ける。

「お前のそばにいさせてくれ」

その言葉に一瞬目を瞠った藍忘機は、やがて羽根のようなやわらかな笑みをふわりと浮かべると、満足そうにこくりと頷いた。
玉の如き白く透き通る顔(かんばせ)に花が咲いたようなその笑みに、魏無羨は思わず息を呑む。
もうすっかり見慣れた顔であるのに、その美しさはかくも閑麗で筆舌に尽くしがたい。

そうして藍忘機はひとしきり花のような笑みを浮かべたまま魏無羨を見つめると、不意に瞼を伏せ、握りしめた魏無羨の指先にそっと唇を押し当てた。

「……っ!」

突然訪れたやわらかいその感触に、魏無羨の頬がぶわりと朱に染まる。
あまりの熱さに、魏無羨は溜らずに自由な右手の甲で乱暴にごしごしと頬を擦った。
そんなことで熱が引くとは思わなかったが、居ても立っても居られず、そうせずにはいられなかった。

自分の左手を握り締めたまま、瞼を落として卓の上に顔を伏せ、心地よさそうに再び眠りに落ちてしまった藍忘機の姿を見やりながら、魏無羨は大きく息をひとつ吸ってからそっと吐息を零す。
床一面に転がった青梅に差した朱がまるで自分の頬のようで居た堪れない。

視線を逸らした先には、翠雨に濡れた青葉が初夏の風に揺れていた。
もうすっかり聴き慣れた若竹の葉擦れの音が耳に心地よく響く。
鶲の囀りもいつの間にか聴き分けられるようになっていた。 
真っ白な玉砂利が照り返す日射しの眩しさも、竹林の先に抜けるように広がる青空も、露台の下に広がる陽の光を反射する池の水面(みなも)も、そこに佇む優美な黒鶴の姿も、もう当たり前のことのように見慣れている。

また来年も、此処でこうしてこの景色を見ていたい。
来年も、再来年も、その先もずっと。

そうしてその隣には、藍湛、お前にいて欲しい。

そんなことを思いながら魏無羨は再び藍忘機へと視線を向けると、左手をそっと手繰り寄せ、自分の手をしっかと握るその白く長い指へとぎこちなく唇を寄せた。
いつもは温度を欠いた冷たいその指が、今は少しだけ熱を持って生(せい)を感じさせる。

その温もりが、堪らなく愛しかった。







『蒼天の吉日』



「景儀?」

寒室を出て渡り廊下を歩いている途中、濡れた髪を鬱陶しげに払う後ろ姿を見かけて藍思追はその名を呼んだ。
振り返ったのはやはり藍景儀だ。

「髪が濡れたままじゃないか。朝からどうしたの?」

今にもぽたぽたと雫が垂れてきそうなその姿に、ちょうどこれから静室に届ける為に抱えていた手ぬぐいを一枚渡す。

「……冷泉に行ってきた」

妙に真顔でそう返す姿は、どこか不貞腐れているようにも見える。

「冷泉?こんな朝っぱらから?」
「沐浴だ」

憮然とした顔は、しかしとても沐浴で精神が浄められたとは言い難い。

姑蘇の朝は冷える。
水に浸かるにはまだ早いせいか、血の気を失ってわずかに紫色になった唇をへの字に曲げた藍景儀は、受け取った手ぬぐいで濡れた髪を挟むと乱暴な手付きで拭き始めた。

「朝から沐浴なんて珍しいね」

卯の刻起床、亥の刻就寝が家規で定められている藍氏だが、年若い子弟たちが皆が皆それに慣れているわけでも真面目に遵守しているわけでもない。
時には羽目を外すこともあれば、先達の目をかい潜って規則を破ることもある。
中でも藍景儀はどちらかと言えば夜ふかしをする方で、朝は寝穢く、少しでも長く寝ていたい方だということを藍思追は知っている。

そもそも今朝は自分の代わりに静室に書簡を届ける役目を言いつかっていた筈だ。
それを思い出し、

「景儀、沢蕪君から託された書簡はもう届けた?」

藍思追がそう問いかけた途端、藍景儀の眉が面白いくらいに吊り上がった。
そうして濡れた手ぬぐいを藍思追の手に押し付けると、

「届けた!静室にはもう行かないからな!」

声を荒げてくるりと背を向け、渡り廊下を勢いよく駆けて行ってしまった。

「景儀!」

藍思追の声が虚しく響く。
そんな勢いで駆けて藍啓仁や先達に見つかろうものなら間違いなく罰を受けると思ったのも束の間、音もなく駆けていく後ろ姿に、思わずといったふうに藍思追は苦笑を浮かべてその背中を見送った。
普段からじっとしていられない性分の藍景儀にとって、家規に触れずに足音もなく駆けることなど造作もない。
藍景儀にはいらぬ心配だった。



さらさらと揺れる竹林の葉擦れの音を聴きながら、藍思追は影竹堂の門を潜り抜けた。
雲深不知処の中でもとりわけ静謐を湛えるこの場所は、驟雨の後の少しひんやりとした清々しい朝の空気に包まれている。
軽やかな白鶺鴒の囀りが耳に心地よい。
そんな囀りに耳を傾けながら階を上がり、静室の前に立つと、藍思追はきっちり三度戸を叩いてから、

「含光君、御膳を下げに参りました」

そう呼びかけた。
程なくして、閉ざされたままの戸の向こうから藍忘機の低い声が届く。

「構わぬ。入ってよい」

自ら戸を開けないということは、開けられない状況にいるのだと藍思追は悟った。
そうして同時に、先程の藍景儀の態度にも合点がいく。
思わず口元に笑みを浮かべた藍思追は、 

「失礼します」

そう声をかけてから静かに戸を開けた。
障子越しの陽光が差し込み、朝餉の汁物の匂いがほのかに残る室内には、思った通りの光景が広がっていた。

布帛の帳の向こうで、まだ眠りから抜け出せていない魏無羨が藍忘機の肩に凭れたまま前後左右にゆらゆらと揺れている。
かろうじて里衣を身につけてはいるものの、豊かな髪の隙間から傾けたうなじが覗くほどに襟元は緩み、無造作に膝を立てて僅かに捲れた裾からは白い足首が覗いている。

卓の上の盆にはまだ半分ほど残っている汁物の椀と、葉物の皿、殆ど口を付けていない粥の椀が置かれたままだった。
箸も匙も盆に置かれている為、最早食す気も無いようだ。
もともと朝からあまり食べる方ではないが、粥一杯を食べられないくらいのよほどの睡魔なのだろう。

「魏嬰、起きよ」

藍忘機が幾度となく呼びかけ肩を揺すっているが、それは徒労に終わり、魏無羨が起きる気配は一向にない。
言葉にならない呻き声を上げてただひたすら眠りの中に落ちようとしていた。
しまいには藍忘機の肩に額を擦り付け、完全にその体は弛緩してしまった。

「魏嬰……」

ずるずると姿勢が崩れていく魏無羨のあまりのしぶとさに、さしもの藍忘機も僅かながら困ったように眉を寄せている。
けれど決して無理に起こすわけでもなく、根気よく体を揺すり、呼びかけることを繰り返していた。

そんな藍忘機の姿に藍思追は思わず笑みを浮かべる。
藍忘機の些細な表情の変化が自分にも分かることが嬉しかった。

藍忘機に育てられたと言っても過言ではない藍思追は、物心がついた頃から側にいた藍忘機の無表情にはすっかり慣れていた。
そもそも魏無羨と共にいた頃、夷陵の町で初対面の藍忘機の脚にしがみついたり膝に登ったりと遠慮なく懐いていたらしいので、もともとさほど気に留める子供ではなかったのだろう。
おぼろげながら沢山の大人に囲まれていた乱葬崗での幼少期を思い返せば、人見知りとは無縁だったのかもしれない。

しかし慣れていたとは言え、感情が読み取れたかと言えばそれはまた別の話だ。
少しも機微を感じられない顔の藍忘機に藍氏の規律を教わり、文字を教わり、時には兎の群れに放り込まれたあの頃は、全く表情が読めず、わけが分からないことが殆どだった。
藍忘機のもとで長く時を過ごし、父のように慕い、一介の修士として僅かばかり己の力を誇れるようになった頃にはほんの少しだけ読み取ることが出来るようになっていたが、それも微々たるものだ。

ただ幼い頃から変わらず藍思追にも分かるものが一つだけあった。
それは憂いの表情だ。
自分を律し、粛然とした藍忘機が時折見せる何処か哀しげで寂しそうな表情だけが、今も記憶に残っている。

そんな藍忘機が少しずつ機微を表すようになったのは、魏無羨との邂逅を果たしてからだ。
あの日、大梵山から魏無羨を雲深不知処に連れ帰ったその時から。
そうして遊歴に出た魏無羨が戻り、ここで居を共にするようになったその時から。
藍忘機の表情はそれまでと変わらず無表情に見えても、それまでよりも分かりやすく、いくばくかの感情の色が見えるようになったのだ。
こと魏無羨のそばにいる時にはやわらかい表情を浮かべることが多くなった。
それだけで魏無羨という存在が藍忘機の心を動かす唯一無二の人なのだと分かる。

そんな二人がこうして寄り添っている姿は藍思追にはとても微笑ましく見えるのだが、藍景儀には少し違って見えたのだろう。
確かに、いつも僅かな肌も見えないほどにしっかりと黒衣を着込んでいる魏無羨の、無防備で隙だらけの朝の姿を初めて目にした時は藍思追も驚いたものだ。
普段は手甲に覆われている細い手首や、靴を履いて見ることの無い素足の白さは、日に焼けた肌とはあまりに対照的で妙な気持ちになったのを覚えている。
こうして日々の静室や、二人の夜狩に同行した際の宿で幾度となくその姿を見るうちに藍思追は慣れてしまったのだが、藍景儀はまだそうではないのだろう。

『距離感がちょっとおかしいんだよ』

いつだったか、そんなふうに言っていた藍景儀の言葉を思い出す。

『別にいつもくっついてるわけじゃないけどさ、時々何かこう、あの二人ってやけに近いっていうか、普通そんなに触れないだろと思うくらい近かったりさ』

もともと魏先輩は気軽に触れるのが多い人だけど、と続ける藍景儀の顔は何とも形容し難い奇妙な表情を浮かべていた。
照れているような怒っているような、それでいて何処か神妙な面持ちで、

『でも含光君はそんな人じゃないだろ?』

そう言う藍景儀に自分は何と返しただろうかと藍思追は考えた。
きっと、

『それがあのお二人だからいいんだよ』

そんなことを返したに違いない。
そしてその気持ちは今も少しも変わらない。


ふと、視界の端で藍忘機の白衣が身じろいだことに気付き、藍思追は沈思していた顔を上げた。

「魏嬰、もう行く」

何処か名残惜しそうに自分の肩から魏無羨の頭を退けると、藍忘機はゆっくりと立ち上がった。
支えを失ってゆらゆらと揺れる魏無羨の肩に手を置き、一度その揺れを止めてから、藍思追へと視線を向ける。

「己の刻には出る。それまでには起きるだろうが支度を調えさせよ」
「承知しました」
「朝餉だけは食べさせるように」
「はい、心得ています」

そう言い置いて静室を後にする藍忘機を見送り、抱えていた手ぬぐいをいつもの箪笥にしまうと、藍思追はよしとばかりに気合を入れて魏無羨へと向き直った。
任せられた責任は重大だ。
何しろここからが一番大変だということを藍思追は知っている。

まだゆらゆらと揺れている魏無羨のそばに歩み寄ると、まずは藍忘機がそうしていたように何度か肩を揺すった。

「魏先輩、朝餉はきちんと召し上がってください。まだ葉物も汁物も残っていますよ。粥なんて手をつけていないじゃないですか」

食事の途中で移動した為か、卓の反対側に配置された椀や皿を魏無羨の前に移動させると、藍思追はその肩を支えて卓の方へと体を向けさせた。
渋々といった体で従うように体の向きを変えたものの、しかし腰から上の向きが変わっただけで座している腰から下はそのままだ。
捩れた体勢に変わった拍子に、魏無羨の体は今度は仰け反るように天井を仰いでしまった。
細い首筋と喉元が露わになる。
おざなりに結い上げられた髪は乱れ、里衣の襟元は隙間だらけで骨が浮いた薄い胸元が覗いている。
帯を締めていない腰は薄布一枚を隔てているだけでその細さが目立ち、極めて無防備だ。
寝乱れたままのその姿は、雅正を重んじる藍氏ではなかなかお目にかかれないほどだらしがない。

峻厳な者が見れば思わず眉を顰めたくなるようなその姿を、しかし藍忘機が無理やり正すようなことはなかった。
勿論、魏無羨が雲深不知処に来て始めのうちは幾度となく正そうと試みたのだが、結局どうやっても変わらず、静室や出先の宿では魏無羨のしたいようにさせているのが今は常だった。

だが人目につくような場では、苦言を呈し、立ち居振る舞いを律することもある。
魏無羨の自由闊達な性分や人となりを否定することなく、しかし魏無羨の評判を落としかねないことは良しとしない。

道侶同然と言われ、傍から見れば何くれとなく魏無羨の世話を焼いているように見えるが、その実、藍忘機が必要以上のことに手を貸すことはない。
藍忘機自ら食事や沐浴の湯を運んだりするものの、身支度などは自分でさせているし、魏無羨もそれを当然としている。

藍思追にはそれが好ましく思えた。
決して甘やかすわけではなく、けれどとても大切に想っていることが分かる。
二人の絆を考えれば、至極当然のように思えるのだ。

しかし藍景儀にはそうは見えないらしい。
ここのところやけに二人を見て妙に落ち着かない素振りを見せることが多くなったのは気のせいではない筈だ。
かと思えば何かにつけて雲深不知処にやってくることが増えた江宗主を見て、二人は道侶同然なのだから邪魔をするなと険を向けるのだからよく分からない。

あの二人の間に入れる者などいる筈もないのだが、魏無羨に近しい人が現れるのがどうにも気に入らないらしい。
三月ほど前、歐陽子真がやって来た際も妙に険のある顔を向けていた。
彼とは共に夜狩に行く際などは仲良くしているのだが、こと魏無羨が絡むと態度が変わるから不思議だ。
言うなればそれは、思慕を寄せる兄を取られる弟のような感覚なのだろうか。
そう考えると藍景儀の言動が随分と可愛らしく思えるものだ。

そんなことを考えているうちに魏無羨の体はますます傾いてしまっていた。
慌てて肩に手を置き、また根気よく声をかけながら揺することを繰り返す。

「魏先輩、ほら起きてください。巳の刻には出立しますからのんびりしていたら間に合いませんよ」
「うーん……」
「今日は含光君も一緒に夜狩に行く約束でしょう。楽しみにしていたじゃないですか」
「うん……そうだったな」

漸く返事が返ってきたのでこの調子だ。

「今日の宿は天子笑の有名な酒蔵が近くにありますし、邯鄲では地元の名酒が飲めるそうですよ」

今回の夜狩先である清河南西部の邯鄲山中は雲深不知処からだいぶ離れている為、巳の刻には出立して一旦姑蘇の麓の町で宿を取る予定だった。
藍氏所有の屋敷を宿として、夜は町の酒舗で食事を取る。
それから蘭陵を経て、黄河を渡り、五日をかけて邯鄲へと向かう。
最近、彷屍が頻繁に現れるという聶宗主からの依頼を受けての夜狩だ。
事案の内容も藍思追ら子弟達だけの手に余るものと見られ、旧知の間柄ということもあって藍忘機も同行することになったのだ。

魏無羨が自分たちに付きそうことは数あれど、藍忘機も同行することはそう多くはない。
かつては逢乱必出と呼ばれた藍忘機も、仙督となった身は想像以上に多忙を極める。
そんな藍忘機と夜狩に行くことになり、昨晩から魏無羨が妙にはしゃいでいたことを藍思追は知っていた。
こうしていつもは起きている筈の無い時間に起きているのも、ひとえにその為だ。

しかしそれでもどうにもこうにも襲い来る睡魔には抗えないらしい。
高揚していた分、昨夜はいつも以上に就寝も遅かったのかもしれない。

「叢台酒ですよ。天子笑にも引けを取らない白酒だって楽しみにしていたじゃないですか」
「……そうたいしゅ……そうだ、遊歴中に飲んだがなかなかあれは美味かった」

さすがに酒の力は絶大だ。
饒舌になりだした魏無羨に、藍思追はここぞとばかりに追い打ちをかける。

「そうです、叢台酒です。早く支度を整えないと邯鄲に到着するのも遅くなりますから、味わう時間も無くなってしまいますよ」
「それは困るな……」
「でしたら早く朝餉を召し上がってください。しっかり食事を取らなければ夜狩で保ちません」
「思追……、叢台酒はな、口あたりがまろやかだが香りが強くて……楚々とした天子笑とはまた違う味わいで……」
「魏先輩、今はまず朝餉ですよ」


そうやって早く起こしたい藍思追とまだ寝ていたい魏無羨が一張一弛の攻防を続けていると、

「魏先輩、まだですか!」

突然、何の前触れもなく賑やかな声と共に静室の戸が開き、一陣の風のような勢いで藍景儀が飛び込んできた。
藍景儀の突飛な行動に慣れているとはいえ、不意打ちで現れるとさすがの藍思追も驚いてしまう。
しかし静室にはもう行かないとつい先程大きな声で宣言したにも関わらず、舌の根も乾かぬうちから此処に現れた藍景儀の顔を見て、藍思追は思わず吹き出してしまった。
藍忘機が執務に戻ったことを確認したのだろう。
静室にいるのが魏無羨だけだと分かっているからこその行動に違いない。

「うーん……何だ……また景儀か、うるさいぞ……俺はまだ寝ていたいんだ……」

突然響いた騒々しい声に漸く頭が動き出したのか、眉間に皺を刻んだ魏無羨が頭を掻きながらぶつぶつと呟いている。
その様子はいつもの柔和な顔と違って何処か不機嫌そうにも見えるが、しかし藍景儀も今度ばかりは容赦をしなかった。

「いいから起きてください!朝餉の膳が片付かないでしょ!ただでさえいつも遅くて配膳係の手を煩わせているんだから、こんな時くらいちゃんとしてくださいよ!」

捲し立てるようにそう言いながら、またずるずると崩れていきそうな魏無羨の腕を取って引き摺り上げる。

「じんいー……もうちょっと優しくしてくれ……」
「十分優しいでしょうが、ほら早くっ!それにさっきは起きてたじゃないですか。何でまた寝ているんです?はーやーくーっ!」

細身ながらも自分よりも遥かに上背のある魏無羨を引き上げるのは至難の業だ。
それが痩躯の少年であれば尚のこと。
脱力しきった体の重力に逆らえず、魏無羨共々今にもひっくり返りそうな様子に、思わず藍思追も手を差し伸べると、二人がかりでぐいぐいと魏無羨の体を引き上げた。

「魏先輩、もう起きてください。巳の刻に出立ですから間に合わなくなってしまいますよ」
「そうだ、今日は夜狩だって言ってただろ。いつも暇そうにしてるあんたの出番なんだよ」

何だかんだ言いながら、藍景儀も魏無羨と夜狩に行くことを楽しみにしていたのだ。
藍忘機が同行する時の魏無羨は特に機嫌が良く、いつも以上にいろいろなことを教えたがる。
それが藍景儀には嬉しく、勿論、藍思追も嬉しいし、他の子弟たちも皆いつも喜んでいた。
藍忘機がいることで緊張感があるのも事実だが、羨望の対象でもある藍忘機を藍氏の子弟が厭うはずもなく、眼の前であの見事な剣技や琴技を見られることを誰もが楽しみにしている。

しかしそんな喜びなど微塵も感じさせない顔で、卓の上の椀を見た藍景儀は更に眉を吊り上げ、声を大きくした。

「あ、あんた全然食べてないじゃないですか!食事は残さず食べること、こればっかりは魏先輩もちゃんと守るように含光君に言われてますよね?」
「もう食べただろ……」
「汁物ちょっとだけじゃないか、こんなの食べたと言わないよ。出された食事は全部食べる、基本だろ。あんたただでさえ細いんだし、しっかり食べてください!」
「……景儀、お前は小姑か」
「誰が小姑だ!」

口煩く言葉を連ねる藍景儀に、鼻の頭に皺を寄せて魏無羨が鼻白む。
しかし次の瞬間には口端を上げ、どこか不敵な笑みを浮かべると、

「細いっていうのはお前みたいのだろ。この腰、俺の手で掴めるじゃないか」

そう言って藍景儀の腰を勢いよく両手で掴んでしまった。

「あ、やめろよ!」

途端に腰を捩って逃げ打つ藍景儀に、魏無羨は回した手を今度はわさわさと擽るように動かし始めた。
漸く目が覚めたのか、じゃれ合うように藍景儀をからかい始めた魏無羨がけらけらと笑い声を上げる。
藍啓仁が見たら卒倒しかねない騒々しさだ。
最早手を貸す必要のなくなった藍思追は、そんな二人の様子を微笑みながら見つめた。

魏無羨は太陽のような人だと思う。
藍思追は魏無羨の笑った顔が大好きだった。
朗らかで明るい陽光のような笑顔はその場の空気さえも変えてしまう。
この人のそばにいれば安心だと思えるし、何かあってもこの人がいればどうにでもなるような気がする。
そしてそれは藍忘機も同じだ。
魏無羨の隣には藍忘機がいて、藍忘機の隣には魏無羨がいる。
それが当たり前であることがとても嬉しかった。
この穏やかな時がいつまでも続けば良いと願わずにはいられない。 



そうして暫くの間、雲深不知処には似つかわしくない賑やかな声が静室に響いていた。

明け方の驟雨の跡はもうすっかり乾いている。
さらさらと葉擦れの音を立てる青々とした竹林の先に広がるよく晴れた青空を見上げ、朝から思いがけない力仕事をして暑くなった藍思追は、うっすらと額に浮かんだ汗を手の甲でそっと拭った。
ついこの間ようやく春が訪れたばかりだというのに、今日はいつになく日差しが眩しい。
まだ夏と呼ぶには少しばかり早いが、暑くなりそうな空だった。


今日もまた、雲深不知処の一日が始まる。








50話以降のcql 忘羨(字幕版)です。
まだ何もない知己。
「驟雨の朝」の続きで、藍思追視点のお話です。
魏嬰を起こす為に小双璧が悪戦苦闘しています。
遊歴から戻って1年後くらいの春のお話。

衝動で「驟雨の朝」を書いたので、後からいろいろ書いていくと矛盾が生じてしまい、少々困りました。
すっかりお眠の魏嬰になっていたのですが、よく考えたら起きて戸を開けていたしそれなりにまともな会話もしていたと気づいて、いやいや一度起きた後が実は大変ということにしました。
諸々、多少の違和感は目を瞑ってください。
魏先輩と小双璧がわちゃわちゃしているのが好きです。

cql藍湛は原作のようには魏嬰を甘やかさないのではないかと個人的に思っています。
天子笑を買って来たり、魏嬰好みの香辛料を買って来たり、欲しいものは何でも与えて、何くれとなく世話を焼いて、絶対的に魏嬰を守るけど、でも基本的な身支度とかそういうことは自分でやらせて必要以上に手を貸すことはないかなと思うのです。
髪紐が緩んでいたりしたら触れるかもしれませんが、最初から髪を櫛ったり結ったりはしないと思います。
でも食事は運ぶし、着替えの衣は用意する。
でも着替えに手は貸さない。
でも緩んでいたら襟を直すくらいはする。
それくらいの距離感です。
但し魏嬰が負傷すると途端に距離感がおかしくなる。
食事も基本的に残さず食べさせるというのは絶対に譲れないところで、魏嬰の為の厳しさも持ち合わせていて、魏嬰も自分を思ってのことと分かっているので口ではいろいろ言いながらもそこは煩わしいとは思わないのだろうなと。
45話でだらしなく座る魏嬰に「きちんと座れ」と苦言を呈す藍湛が印象的で、人目のある場所では魏嬰の為に厳しくもあるのだなと思いました。
そんなcql藍湛が大好きです。
知己超えをしたら髪を結うくらいはしそうですが、まだまだ知己です。

こちらもpixivに投稿済みです。
前作の渇欲とは比べものにならないくらい健全です。
そして自分でもどうしたのかと思うくらい毎日ぽちぽちしています。
忘羨を書くのが楽しい。
pixivに投稿し始めてちょうど1ヶ月になりますが、7作品の観覧が13,000回を超えていて驚きました。
フォロワーさんも増えて、ブクマやコメントも頂けて本当に嬉しい限りです。
人さまに読んで頂ける喜びを感じています。
cql忘羨、大好きです。


を、pixivにあげました。
思いきりR18の描写をしているのでこちらには上げません。
pixiv内にて「渇欲」で検索してください。

冒頭だけ。
……………………………………………

緑雨の雲深不知処、巳の刻。
蔵書閣の奥。
立ち並ぶ書架と天井から吊るされた布帛の向こうから、降り続く雨の音とは異なる微かな水音が絶え間なく響いていた。

何かを打ち付けるような鈍い硬質な音と、床板が軋む音、そして重なる二つの荒い息遣いに混じる悲鳴にも似た甘い声。

それは魏無羨の声だった。
……………………………………………


cql忘羨、香炉if後の座学if 。
蔵書閣でいたしているだけのお話です。
魏嬰より先に音を上げる藍湛が見たくて書きました。
他のお話との繋がりは全くありません。

16年後では絶対にあり得ない、藍湛の最後の台詞を言わせたくて書いたお話です(全部は言っていませんが……)
金丹もあって修為も互角の二人の座学時代ならではかと思います。
自由闊達で無邪気で時には美少女のようなきゅるんとした顔を見せる座学時代の魏嬰が性にも奔放だったら……のifです。
1度目は拗らせた藍湛から無理やりでも、気持ちいいことを知ってしまったら魏嬰もそこは素直に夢中になりそうな気がします。
普段もそこそこ煽るし藍湛が請えばすぐに応じるけど、何かのスイッチが入っていつも以上にいやらしい気分になって強請りまくる魏嬰に初めて先に音を上げる藍湛です。
5回目くらいの逢瀬のイメージ。
藍湛→魏嬰は勿論恋慕ですが、魏嬰→藍湛はまだ自覚はありません。

本当はcqlでこの手のお話は書きたくなかったのですが、原作忘羨とも違うような気がしてcql忘羨です。
突然、私も何かのスイッチが入りました。
お話を書く時は映像が浮かんでいるタイプですが、さすがにcqlではそれも出来ず、立絵も性格も口調(字幕版)も声も校服も背景もcqlですが、映像は原作で書いていたのはせめてもの良心です。
我ながら頭の中が器用(変な日本語)

藍湛の美貌をひたすら描写したいので魏嬰視点で書きましたが、そんな理由でcql らしい描写は割と控えめです。
変なスイッチが入って久しぶりに本気を出しました。
いたしているだけなのに思いのほか長くなって驚いています。
1週間、ひたすらcql座学時代を見ながらポチポチしていました。 
蔵書閣と座学校服が大好きです。
いたしているのは藍湛が座っている裏あたりのイメージ。
雨も大好きなのでまた雨になってしまいました。
若いので朝っぱら盛っています。
何だかんだで甘い雰囲気になりましたがこういう雰囲気大好きです。

それにしてもこの1ヶ月ほどすっかり文章浸けの日々で自分でも驚いています。
cql忘羨、本当に創作意欲に駆られます。

忍者ブログ [PR]


Designed by A.com
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新記事
プロフィール
HN:
梶井まき
HP:
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索