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「四葩の夢」






キン。
キン、キン。

激しく打ち付ける雨粒が避塵に当たり、澄んだ鋭い音を奏でる。
爪の先が白くなるほどに握り締めた硬い鞘の感触だけが、今は頼りだった。
縋るようにそれを強く握り締め、ただ真っ直ぐに雨の中に佇む馬上の彼を見つめる。
視界を遮る程の雨粒が傘を打つ音がひどく耳障りだ。
これでは彼の声が聞こえない。
だがそれでも、

「藍湛、阻むのか?」

優しく責めるように問われたその言葉は、確かに藍忘機の耳に届いていた。


彼を傷つけることなど出来る筈も無い。
けれども、そうしてでも彼を引き留めたい。
それから雲深不知処に連れ帰り、隠してしまいたい。
そう思ったのも事実だった。
あの時、どれほど考えただろうか。
実際は半炷香も無かった筈だが、藍忘機にはあの時間がまるで永遠に終わりが来ないのではないかと思えるほどに長く感じられた。

幼い頃から思いを言葉にすることが不得手だった藍忘機だが、この時ほど己の性分にもどかしさを感じたことは無かった。
何故、止められない。
何故、この想いを言葉に出来ない。
溢れるほどの胸の内を言葉にする術すら知らない自分の愚かさをただひたすらに悔いた。

けれどあの時、大きな黒い両の目に溢れんばかりの涙をいっぱいに浮かべて切情を訴える魏無羨に、あれ以上、一体何が言えただろうか。
何を言葉にしても彼には届かない。

死んだところで、自分の手で死ねるのであれば悔いはない。
そう告げた魏無羨をただ呆然と見上げることしか出来なかった。
そして陳情を手にした決意の彼の顔を見た時、もう他に道は無いのだと悟った。

そう思ったからこそ、藍忘機は剣を抜いたのだ。


傘を傾け地面に落とすと、ゆっくりと避塵の柄へと手をかける。
馴れ親しんだ硬く冷たいその感触に微かに肌が粟立った。
五指で強くそれを握り締める藍忘機のその姿に、

「藍湛……」

編笠の下で魏無羨が目を瞠るのが分かった。

「魏嬰、行くな」

とうとう口にすることが出来なかった言葉が溢れた。 
これが最後だと思えば、どうしてかすんなりと言葉にすることが出来た。

「藍湛……、お前が俺を救ってくれるのか?」

そう言った魏無羨は、涙を浮かべながら微かに笑っていた。
お前にそれが出来るのかと問われているようだった。
実際、そう問うていたのだろう。
彼が救うと決めた者たち全てを纏めて自分を救うことが出来るのか、と。

だから、藍忘機は剣を抜いて応えた。
あの時の誓いを違えることになっても構わない。
今、救いたいのはお前だけだ。
それを伝える為に。

「……魏嬰、馬を降りよ」

藍忘機の言葉に、魏無羨は最早、滂沱の涙を流していた。
編笠から伝う雨とも涙ともつかぬ雫が彼の頬をしとどに濡らす。

やがて魏無羨は馬上からその身をすらりと降ろすと、もう殆ど役に立っていない編笠を投げ捨て、ゆっくりと陳情を口元に構えた。
滝のように激しく打ち付ける雨の音の中、重々しい笛の音が響き渡る。
ゆらりと墨を刷いたように瘴気が立ち昇っていく。

次の瞬間、藍忘機はぬかるむ地面を蹴り、一気に距離を詰めると、容赦なく避塵を振るった。
魏無羨は仰け反るようにしてその一閃を避け、藍忘機がすぐさま返した剣尖を今度は陳情で受けて払い除ける。

激しい攻防だった。
避塵から放たれる青い剣芒と、陳情から放たれる黒い瘴気が入り乱れるようにして絡み合う。
鋭く澄んだ刃の音と禍々しい笛の音。
繰り返し剣尖を向ける藍忘機と、それを受け、避けながら陳情を奏でる魏無羨。

しかし、その結果は火を見るよりも明らかだった。
陳情があるとは言え、剣を持たず、防戦一方の魏無羨に元より勝機は無い。

避塵の剣尖が魏無羨の喉元を掠め、それを避ける為に後ろに飛び退った彼が僅かに足元を崩したのを藍忘機は見逃さなかった。
手首を返して剣首で魏無羨の胸を強く打つと、その衝撃で膝を折った彼の背後に回り込み、首筋にも更に一撃を打ち込んだ。

そうして腕の中に落ちてきたその身を掻き抱く。
雨に打たれ続けた身体は芯から冷えて驚く程に冷たい。
微かに首筋にかかる息遣いの温かさだけが、彼が生きていることを伝えていた。

もしかすると初めから彼にはその気など無かったのかもしれない。
此処で藍忘機の手に依って絶たれることが本当の望みだったのだろうか。
いっそそう思えるほど、結末は呆気なかった。

もう二度と離さない。
このまま雲深不知処に連れて帰ろう。
そうしてそのまま誰の目にも触れさせず、隠してしまおう。
これでもう、彼は自分だけのものになる。

そう思いながら、強く、強く、藍忘機はただその身体を強く抱き締めていた。


(違う)

唐突に藍忘機の頭の中に声が響いた。

(これはあの時の記憶ではない)

そう感じた瞬間、どろりと溶けるように魏無羨の身体が腕の中から崩れ落ちて跡形もなく消えた。

「魏嬰……っ!」

悲鳴にも似た藍忘機の叫びが闇夜に響き渡る。
雨の音が無情にもそれを掻き消していく。
五指を開いたその掌は、真っ黒い淤泥(おでい)に塗れて汚れていた。
どす黒い塊がぼたぼたと指の隙間から零れ落ち、やがて、その指までもが闇に溶けるようにして消えて無くなった。





「藍湛」

名を呼ばれたような気がした。
重い泥濘の底を揺蕩っていたような深い眠りからゆっくりと目覚める。
四肢を押さえ付けられていたかのような強い倦怠感が、指先から、足先から、静かに引いていく。

「藍湛、起きたか?」

頭上から降り注いだ声に重く閉ざしていた瞼をようよう持ち上げると、僅かに眉根を寄せた魏無羨の顔がそこにあった。
白い日差しが彼の顔を明るく照らしている。

「魏嬰……」

名を呼ぶと、漸くその顔に笑みが浮かんだ。
見慣れた魏無羨の顔に藍忘機は小さく息をつく。
そうして、夢を見ていたのだと気付いた。

横たえていた身体を起こし、傍らの円窓の外を見やると、草木は濡れていたがもう雨は上がって、見上げた先には晴れ晴れとした青空が拡がっていた。
どうやら雨の音を聴きながら眠っていたせいで、あんな夢を見たようだ。

姑蘇に隣接する仙門世家からの訴状を受けて夜狩に出ていた藍忘機が雲深不知処に戻ったのは午の刻だった。
さほど時間もかからず解決した為、そのまま馬を走らせて戻って来たのだが、夜中(よるじゅう)一睡も出来なかったことには変わりなく、身なりを整えた後、束の間の午睡を取っていたことを藍忘機は思い出した。

ゆっくりと首を巡らすと、牀榻の枕元に膝を立てて座り、自分を見上げていた魏無羨と視線が重なった。
時を置かずして、

「藍湛、お帰り」

魏無羨がそう言って笑った。
眩しい陽光のようなその笑顔に、藍忘機の眦も自然と下がる。
僅かに早まっていた鼓動が次第に落ち着いていくのが分かった。
藍忘機の方が先に此処にいて迎える側であるにも関わらず、当たり前のようにその言葉を口にする魏無羨にどこか面映ゆい気持ちになる。
藍忘機は黙って首肯を返すと

「お前も」

そう、言った。
すると魏無羨の顔にたちまち笑みが広がる。

「うん、ただいま」

ごく自然とそう笑う彼の顔が眩しい。
此処が彼の帰る場所になっていることがこの上なく嬉しかった。
何気なく交わされる言葉の一つでしかないのだが、その意味は感慨深い。

不意に、魏無羨の顔から笑みが消えた。
そうして真顔のまま指先を伸ばすと、

「……藍湛、どうした?辛い夢でも見てたのか?」

目を眇め、微かに憂いを滲ませた表情で藍忘機を見上げた。
伸ばした指先で目元を拭われ、初めて自分が涙を流していたことを知る。
一筋の涙が流れた跡をなぞるようにして魏無羨の少しかさついた指先が頬を撫でた。

おもむろにその手を掴み、その温もりを掌に感じる。
先程まで子弟たちの鍛錬にでも付き合っていたのだろう。
はたまた裏山で兎を追いかけて走り回っていたのか。
常よりも僅かに高い体温がじわりと拡がって、藍忘機の心を穏やかに満たした。

「……いや」

藍忘機は小さく首を横に振ると、

「所詮、夢だ」

そう言って微かに口元に笑みを浮かべて見せた。
それから自分に言い聞かせるように、もう一度「夢だった」と繰り返す。

「……そうか?」

そう言いながらもまだ何処か心配そうな表情を浮かべた魏無羨の顔に、藍忘機は堪らず目を細めた。
握った手に僅かに力を込めてから、そっとその手を彼のもとへと戻す。


あの日の夢だった。
全ての始まりでもあった雨の中の窮奇道の別れ。
あの時、どうしてあのまま行かせてしまったのか。
十六年もの間、何度も何度も悔いては繰り返し見た夢。
悔いても悔いてもこの悔恨に終わりはない。

だがしかし、今となってはそれがあったから今があるのだと思える。
あの時、引き留めていたら何かが変わっていたかもしれない。
けれどそれはもしかしたら今に繋がらなかったかもしれない。
考えても考えても終わりは無く、きっと永遠にその答えは見つからない。

ただ一つ言えることは、今、彼がここに在るのが現(うつつ)だということだ。
過去は過去。
夢は夢。
今ある現があればそれで良い。
彼が生きて此処にいることを感じられる日々が、今、此処に彼がいることが紛れもない現なのだ。

「魏嬰、大丈夫だ」

藍忘機がそう言うと、魏無羨はそれ以上は問わず、うんと小さく頷いた。


ふと、魏無羨の足元に置かれた篭から溢れる紫の花が目に入った。
静室に飾る為に門弟が届けてくれる花とも違う、何処か無造作に篭に入れられたその花は、淡い色の布帛(ふはく)でまとめられた静室の設えに鮮やかな色を添えていた。

「それは?」

視線で問うと、魏無羨はぱっと篭から一房を取り上げ、まだ雨粒を纏った瑞々しいそれを藍忘機の目の前についと差し出した。

「ああ、四葩(よひら)だ。裏山に咲いていた。綺麗だろ?」

雨で枝が折れていたみたいだから静室に飾ろうと思って、そう続けた魏無羨の言葉に藍忘機は思わず顔を綻ばせる。
粗雑でいながら存外優しいところがある男だと思う。 
自ら手折ることをしない優しさはきっと彼の性分だ。

大きな手毬のような花をくるくると回していた魏無羨は、再びそれを篭に戻すと、身を乗り出すようにして尋ねた。

「なあ藍湛、夜狩はどうだった?話を聞かせてくれ。俺も話したいことが沢山あるんだ」

自分の方がよっぽど話したいことがあるのだろう。
うずうずとしたその様子に、

「お前から」

先に話すように促すと、「そうか?」と言って魏無羨は牀榻の端に肘を着き、藍忘機を見上げながら楽しそうに話し始めた。

「今日は下の子たちの弓の修練に付き合っていたんだ。面白いぞ、藍先生が見ていたら腰を抜かしていた筈だ」

そう言って話す前からくつくつと笑いを零す魏無羨の姿に、藍忘機は例えようの無いほどの多幸感を感じた。

まだ腰を落ち着けて間もない彼が此処に馴染んでいることが嬉しい。
特に年少の門弟たちは羨哥哥と呼んですっかり魏無羨に懐いている。
そう呼ばれることに何処か照れくさそうにしている魏無羨だが、今日もそんな子供たちに強請られて得意な弓を教えてやっていたのだろう。
何をやったのか一抹の不安を覚えつつも、もうあの頃とは違う魏無羨が本当に叔父を怒らせるような真似は決してしない筈だ。
あの頃と違うのは藍忘機も同じで、彼のやることなすことに眉を吊り上げていたかつての自分はもういない。

生き生きと語る魏無羨の姿に藍忘機は自然と眦を和らげる。
続きを促すように視線を向けると、夏の日差しのような眩しいばかりの笑顔を浮かべて魏無羨は言葉を継げた。

「藍湛、あのな」

軽やかに笑うその声が耳に心地よい。
今ここに、彼がいるのだとはっきりと感じられる。

そんな彼の笑い声を聞いていると、もうきっとあの時の夢は見ないだろう、不思議とそう思えた。







『四葩-よひら-の夢』

50話以降のcql知己忘羨(字幕版)です。
魏嬰が遊歴から戻って間もないとある雨上がりの午後。
窮奇道での別れを夢に見た藍湛が午睡から目覚めると、そこには魏嬰がいて……。
夢の中のお話と目覚めた後のお話です。

紫陽花の別名の四葩(よひら)という響きが好きで、先に浮かんだタイトルから書いたお話です。
紫陽花の花言葉の『辛抱強い愛情』は藍湛そのものだと思います。

箸休め的な軽いお話にしようと思いましたが、藍湛視点にしたところ思わぬ方向にいってしまいました。
魏嬰のいない16年間、藍湛は様々な夢を繰り返し見て苦しんでいたのだろうなと思います。
悔いても悔いても二度と戻ることは出来ない後悔は数あれど、けれど魏嬰が蘇ってからは共にある今を大切に思っているのではないかとも思います。

少し重いお話になってしまいましたが、目覚めた後はいつもの忘羨です。
夢との対比が表現出来ていたら良いのですが……。
しかし知己なのにすぐ触れようとするのはどうしたものでしょう。
気付くと直ぐにお互い触れていますがまだまだ知己知己です。

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