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白衣を翻して剣を振るうその姿は、雄々しく舞い踊る武神のようだった。
豊かに広がる袂と幾重にも折り重なる裾が身を返す度に翻り、まるで閃光のように漆黒の闇夜に真白の光を放つ。
藍忘機の剣技は流麗でいながら荒々しく、美しさはもとよりその圧倒的な屈強さは見る者を魅了する。
魏無羨が奏でる陳情の音(ね)に避塵の鋭く澄んだ音が重なり、まるでひとつの調べを奏でているようだ。

不意に、藍忘機の背中にたなびく藍白色の抹額の裾があらぬ方へと波打つように翻った。
背後から迫っていた凶屍の爪先がそれへと伸びる。
その瞬間、

「藍湛!」

魏無羨は構えていた陳情を唇から離し、その名を叫んだ。





『壟断』





「この手の訴状は大体ろくな事じゃない」

ひらひらと扇子のように書簡で扇ぐ魏無羨の顔にはうんざりとした表情がありありと浮かんでいた。

「この商家の主はあらぬ嫌疑をかけられて民が一揆を起こしたから鎮圧したと言っているが、そんなのはどうせ当主の体の良い言い訳だろう。大体この手の話は逆だ。商家の横暴さに我慢の限界を超えた民たちが奮起して一揆を起こすんだ。当主は自分を正当化しているだけで話を聞くまでもなかったな」

つらつらと悪辣な言葉を吐き出しながら面倒くさそうに足を進める魏無羨の隣には、泰然とした表情を崩さない藍忘機が寄り添うように肩を並べている。
二人の後ろには、藍思追と数人の門弟が一丈ほど離れて付き従っていた。

雲深不知処を出立して今日で四日になる。
姑蘇と蘭陵との境にある微山湖を北上し、泰山の麓に程近い場所にあるこの町は、大河の支流のそばに位置している為、小さいながらも水運業で栄えた町だった。
町中には幾重にも水路が張り巡らされ、荷を積んだ小舟が行き交う光景は何処か姑蘇の彩衣鎮を彷彿とさせる。

聊家はそんな水運業のみならず鉱山業でも財を成し、近隣の町や村をまとめ上げる商家で、謂わばこの地の豪商だ。
町の中心に位置する聊家の屋敷は広大で、塀から門、母屋や離れの建物の壁にいたるまで色鮮やかな装飾が施され、いかにも豪商らしい、言い換えれば非常に趣味の悪い屋敷で界隈でもよく知られていた。
それは、初めてこの町を訪れた魏無羨らが道を尋ねるまでもなく、少し歩いただけですぐに見つけられたほどだ。

夜狩の嘆願の訴状はそんな聊家からのものだった。
曰く、謂われのない嫌疑から一揆を起こした隣町の民を鎮圧して以来、妖魔鬼怪、いずれかも分からぬ邪祟が大量に現れ、聊家の屋敷を夜な夜な訪れるという。
子の刻になるとドンドンと激しく門扉を叩く音が聞こえ始め、それが延々と寅の刻まで続くので、以来、屋敷の者たちは一睡も出来ずにいるというのだ。

「一睡も出来ないで生きていられるわけがないよな。訴状が届いてから何日だ?もう半月くらいになるだろ。その間全く寝てないって?はっ、ぴんぴんしてたじゃないか」

つい先ほど訪れた聊家の屋敷の様子を思い出しながら、魏無羨は吐き捨てるように言った。

「どいつもこいつも顔色が良くて随分と肥えていたな。とても一睡も出来なかった顔じゃない。邪祟なんか気にせずいかにもたっぷり寝ましたという顔だ」
「……魏嬰」

嗜めるように低く名を呼ばれ、魏無羨はぐっと息を詰まらせた。
いかにも矛先が変わっていきそうだった。
確かにこれは些か過ぎた発言だ。
自分でもよく分からないが、どうにもこうにも聊家のやり口は気に入らない。
ふつふつと込み上げる鬱憤を晴らす為についつい口が回り過ぎていたのは否めなかった。
未だ治まらない苛立ちに口を歪めて鼻を鳴らした魏無羨だったが、視線を向けた隣を歩く藍忘機の顔にもそうと分かるほどの不快さが浮かんでいるのを見て少しばかり心を落ち着かせた。

当主の代理と名乗る者から仔細を聞いたが、聞けば聞くほど不愉快極まりない話だった。
そもそも訴状を送った当主が不在ということが何としても解せない。
こうしている間も財を成すことしか頭に無いのだろう。
市井の中にも恐怖が拡がり、ほとほと困り果てていると口では言うが、要は聊家の屋敷があり、金を生み出すこの町を壊されることが嫌なだけで、それは決して邪祟から民を守る為ではない。
あくまでも自家の屋敷と財を守る為だ。
こんな傲慢で横暴な当主に鎮圧と言う名の元に散らされた民を思うと同情を禁じ得なかった。

訴状は言葉巧みに書かれていた為、そんな実情は分からなかったが、しかし調べるうちに聊家のみならず市井や近隣の村にまで邪祟の被害が出ていることが分かり、とてもこのままにしておくことは出来なかった。

「ま、とにかく邪祟を退治するのが先決だな」

己の感情を後回しにすべくそう呟くと、藍忘機が同意するように浅く頷いた。


件の町はそんな聊家の屋敷がある町から十里の場所にあった。
半時辰ほど歩いて辿り着いたそこは、もはや枯れ果てた町だった。
人影は無く、一揆の鎮圧の名残りか家屋は崩れ、賑わっていた頃の名残りは全くと言っていい程残っていない。
かろうじて元宵節の赤い飾り提灯が埃を被って残っているのは、この町がまだその頃まで生きていた証だろう。
半年前には人が溢れていたであろう蕭々とした通りを北へと歩みを進める。

遊歴中にも魏無羨はあちこちの山野を歩き、数々の町や村を見てきたが、蘭陵は特にこんな場所ばかりだった。
そこを治める世家が崩れるということはこういうことだ。
宗主に就いたばかりの金凌はまだ若く、宗主を助けるべき金氏の先達たちは揃いも揃って金氏の権力を傘に着て歴代宗主に媚びへつらい、私欲に走り、世家としての責務を果たしていない者ばかりだった。

かつての仙督である金光瑤の唯一の功績とも呼べる瞭望台も今はその大半が機能しておらず、金麟台に程近い場所でも、小さな町はその地の豪商によって私利私欲の元に不利益を強いられ、民は虐げられているのが常だった。
この町もそんな場所の一つに違いない。

仙督となった藍忘機が四大世家である他の三家の協力の元に各地の世家の精査を進め、瞭望台の再建を含めて修真界の統治を進めてはいるが、この広い世の隅々にまで目を向けることは容易ではなく、それを成すにはまだまだ果てしなく時間はかかる。
そうしている内にも消えていく町はある。
栄枯盛衰。
まさしく世は無常だ。


「お、蛙だ」

聊家の屋敷を出てからくさくさとした気分で歩いていた魏無羨は、道端から飛び出てきた黄緑色の小さな雨蛙を見て足を止めた。
親指の先程のそれをひょいと屈んで捕まえると、

「藍湛、蛙だ」

そう言ってむんずと掴んだ藍忘機の掌に乗せる。
藍忘機は無言のまま暫しそれを眺めた後(のち)、ゆったりと屈んでその雨蛙を道端の草むらに戻してやった。
捕まえた魏無羨はと言えばもうすっかり雨蛙への興味は失せ、今度は道端の葦を一本摘み取ってゆらゆらと揺らしながら歩いていた。

雲深不知処を出てから道中はずっとこんな調子だ。
後ろを歩く藍思追や同年の門弟たちは、そんな魏無羨の自由気ままな行動にくすくすと笑いをこぼしたり、時にハラハラしたりすることを繰り返していた。

朽ちた町の周りには青々とした夏草が生い茂るかつての水田が広がっている。
この町が商業だけではなく、田畑の恵みを受けていた町だったということが分かる。
小さいながらも近隣の町への交通の要所でもあったのだろう。
しかしそんな水田は、今は畦道が見えない程に腰までの高さにみっしりと生えた雑草に覆われていた。
秋には豊穣の実りを結ぶ稲ではなくとも、青々とした夏草に澄んだ清らかな水が流れる水路と、遠くに聳える泰山の麓に広がる風光明媚なその光景はとても朽ちた町のものとは思えなかった。
だがしかし、振り返ればそこは荒れ果てた家屋が建ち並ぶ荒涼とした町で、人ひとり歩く姿も無く、往時にはあったであろう賑わいは見る影もない。

何処か義城を思わせる町だった。
乾いたあの町のように白く煙る霧こそ無いが、澄み渡った青空と生い茂る夏草の鮮やかな色彩に囲まれていながら、それとは対象的に町自体はまるで墨を刷いたような色を欠いた灰色で埋め尽くされていた。


「ここで待つことにするか」

町の中と外とを一通りぐるっと見て回った後、門閭のすぐそばにある一軒の家屋の前で立ち止まって魏無羨は言った。
日が暮れるまでまだ時間がある。
邪祟が現れるまでどれくらいかかるか分からない為、夜狩に備えて仮眠を取り、夜まで待つことにしようと魏無羨は告げた。
藍忘機も異論は無いようで、黙して頷くと先に立って扉を開け、中へと入って行った。
ギギギギと耳障りな音を立てて開いた木戸の向こうに吸い込まれるように藍忘機の後ろ姿が消える。
その後を追おうとした魏無羨は、ふと、自分の背中に向けられた幾つもの視線を感じて足を止めた。

「どうした?」

振り返った先にある強張った顔の門弟たちを一通り眺めてから、魏無羨は首を傾げた。
揃って入りたくないような素振りを見せる彼らは、互いに顔を見合わせながら何かを口にすべきかどうか迷っているようだった。
そうしてひと呼吸を置いてから、

「魏先輩」

意を決したように藍思追が声を上げた。
その顔には未だ躊躇うような表情が浮かんでいたが、促すように魏無羨が微笑むと、漸く重い口を開いた。

「あの、この家は何か嫌な気がするのです」

ひと息に告げた藍思追に、まわりの門弟たちも同意するようにこくこくとしきりに頷いている。

「嫌な気?」

陳情を片手に胸の前で腕を組んだ魏無羨は、首を傾げたまま目顔で続きを促す。

「何というか、上手く言葉に表せないのですが、邪気とも違う、陰の気……とても不穏な気というか、負の感情というか……」

藍思追にしては珍しく言い淀む姿に、魏無羨はその理由に思い至った。
なるほどと一人頷いてから、片方の口端を上げて何処か狡猾そうな笑みを浮かべると、手にした陳情をくるりと回してその先を藍思追に向ける。

「思追、それは間違ってないぞ」
「えっ?」

驚きの声を上げた藍思追は思わずといったふうに剣の鞘を握る手に力を込めた。
後ろにいる門弟たちにも動揺がさざ波のように広がる。
不意に真顔になった魏無羨はそんな子供たちを見回すと、声を低め、もったいぶった口調で、

「此処は義荘だからな」

こともなげにそう言った。

「義荘…?!」

異口同音、声を上げた藍思追らの反応に、途端に魏無羨の顔にいつもの笑みが戻る。
そうして、

「どんな町にでも義荘の一つくらいあるだろ?」

珍しくも何ともないと続けて魏無羨は呵々(かか)と笑った。   

どうりで陰の気が強く感じられるわけだ。
よりにもよって何故、義荘なのか。
他にもたくさん家屋はあるのに何故、此処を選ぶのか。
仮眠とはいえ、義荘で落ち着いて眠れるわけもない。

恨めしげな顔で雄弁にそう訴えかける子供たちを見下ろすと、  

「門に近いからさ」

それだけ言って魏無羨は中へと入って行った。

確かに町によっては凶兆が吉兆を喚ぶいう思想の元、わざわざ門閭のそばに義荘を置くところがある。
しかし門に近いだけなら向かいの家でも良いのではないかと門弟たちは皆思ったが、口に出せず、仕方なく魏無羨の後を追った。
中に入ると、藍忘機は既に床に座して瞑想の域に入っている。
その隣に悠々と魏無羨が寝そべるのを見て、藍思追はふっと笑いを零した。
此処がどんな場所であろうともこの二人がいれば安心だ。
頼もしい二人の姿に、今は為すべきことを為すだけだと心を改める。

「魏先輩、どうやって邪祟を鎮めますか?どれほどのものか分かりませんが、一揆を鎮圧されて亡くなった民だとすれば怨念も強いですよね」

藍思追が魏無羨のそばに行き、夜狩の算段を立て始めると、他の門弟たちもそれに倣ってわらわらと集まり始めた。
その顔には先程まで浮かんでいた不安げな表情はなく、一介の仙師としての自信と頼もしささえ感じられた。
そんな彼らの様子に魏無羨はにっこりと笑みを浮かべ、藍忘機は一度だけ瞼を上げて門弟たちを一瞥するとまた静かに瞑想の淵へと降りていった。





戌の刻を半時辰ほど回った頃だった。
突然響き出したガタガタと扉が揺れる音に、魏無羨は閉じていた目をぱっと見開いた。
隣に座っていた藍忘機がゆっくりと瞑想の淵から抜け出る。
藍思追たちもはっとしたように身を起こし、一瞬にしてその場に張り詰めたような緊張感が漲った。

魏無羨は壁に寄り掛かっていた背を起こすと、前もって開けていた紙窓の穴を指で広げ、外を窺い見た。
白白と輝いていた満月はいつの間にか雲に隠れ、朧の月明かりに照らされた通りには生暖かい風がゆっくりと渦を巻くように流れている。
時折思い出したかのように強くなるそれが、またガタリと扉を揺らした。
その風に乗って、グゥグゥと獣が呻くような不気味な声が聞こえる。

「思った通りだな」

囁くように声を落とした魏無羨の言葉に藍忘機が頷いた。
背後では年若の門弟たちが緊張した面持ちでそわそわと浮き足立っているのが気配で伝わってきたが、藍思追と同年の門弟が目配せをしてそれを宥めているのが視界の端に映った。
藍思追の頼もしいその様子に魏無羨は口角を上げると、再び外へと視線を向ける。

昼間、全く人気の無かった家々から次々と凶屍が這い出して来るのが見えた。
ぼろぼろの衣を纏い、その手には鍬や鋤や鉈等が握られ、だらりと引き摺るように下げている。
それらがザリザリと地面を擦る音が徐々に大きくまとまりながらこちらへと近付いて来る。

案の定、聊家の屋敷がある町に夜な夜な現れる邪祟というのは、一揆を起こし、聊家に鎮圧されて凶屍となったこの町の民だったのだ。
凶屍たちは、毎夜この町から聊家の屋敷へと向かっていたに違いない。
途中の村々でも目撃情報があったのも頷ける。
凶屍となった民がぞろぞろと十里もの距離を移動するとはなかなかの怨念だ。
聊家の屋敷に現れるのが子の刻ということだから、この凶屍たちは常人であれば半時辰で歩ける距離を二時辰もかけて移動していることになる。
果たして凶屍の足で速いのか遅いのかは分からないが、余程の怨念だということは窺い知れた。
実際、凶屍の数が増えるにつれてビリビリとした強い邪気が家の中にいても伝わってくるようだった。

「藍湛、奴らがこの町から出る前に片付けよう。恐らくここまで怨念が強いと化度は出来そうにない。終わったら鎮めてやろう」

藍忘機が頷くのを見て、魏無羨は背後を振り返った。
状況によっては手を出さずにいることも考えていたが、子供たちに任せるには数が多過ぎて荷が重い為、今回は二人が主となって片付けることにする。

「思追、俺と藍湛で出来るだけ引き付ける。お前たちは取りこぼした奴らを始末しろ。昼間仕掛けた縛仙網を上手く使え」
「はい」
「一体たりとも門から出すな。いいな?」
「分かりました」

矢継ぎ早に指示を出す魏無羨の言葉に藍思追らは緊張した面持ちで頷いた。
だがしかしそこは若いながらも姑蘇藍氏の門弟であり、数々の死線を越えてきた魏無羨への憧憬の眼差しと共に、その顔には仙師としての使命感と自信も満ち溢れていた。

「よし」

魏無羨はそんな少年たちを満足そうに見渡すと、藍忘機を振り返り目顔で頷いた。


バン!と勢いよく扉を開くと、途端に生暖かい風が吹き込んで肌を撫でた。
すっかり雲に覆われて月明かりの無くなったあたりには漆黒の闇が拡がっている。
先陣を切って躍り出た魏無羨が闇夜に向けて何枚もの明火符を飛ばす。
仄かな明かりに照らされた通りには、夥しいほどの凶屍の群れがすぐそこまで迫っていた。
ずるずると足を引き摺りながら門に向かって歩いていた凶屍たちが、明火符の明かりに足を止める。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、驚く程俊敏な動きで突如走り出した凶屍の群れがうねる波のようにこちらへと押し寄せて来た。

「お前たちは下がれ!」

魏無羨はそう叫ぶと、剣訣を結んだ二本の指を素早く宙に滑らせて文字を書き、一瞬にして浮き上がった鮮やかな橙色の光を掌底で凶屍に向けて放った。
刹那、数体の凶屍が吹き飛ぶ。
その後を追うように跳び上がった藍忘機が即座に避塵を振るい、更に数体を一閃で薙ぎ払った。
しかし吹き飛ばされた凶屍の後ろからまたすぐに次の凶屍が現れる。

通りを埋め尽くす凶屍の群れは、まるで溢れた糖蜜に群がる蟻の大群のようだった。
闇の中で黒々とした有象無象が蠢いている。
ある者は不自然極まりなく首を傾げ、ある者はあらぬ方へと足が向いたままそれでどうして歩けるのか真っ直ぐにこちらへと向かって来る。
魏無羨の呪符によって吹き飛ばされ、藍忘機の一閃に薙ぎ払われても尚、その数は一向に減らない。

「思ったより数が多いな!」

ぞろぞろと湧き出るように次々と現れる夥しい数の凶屍に向けて呪符を投げつけながら、魏無羨は声を張り上げた。
その声に応えるように、振り向きもせずに藍忘機が避塵を後ろに払って青い剣芒で凶屍をまた吹き飛ばした。

藍忘機が右側から回り込み、振り向きざまに凶屍を避塵で一閃すると、魏無羨は左側から回り込み、呪符を飛ばして別の凶屍の一撃を陳情で払う。
くるくると舞い踊るように右へ左へ前へ後ろへと場所を入れ替えながら、藍忘機と魏無羨は襲い来る凶屍の群れを次々と薙ぎ倒していった。

互いに背を預け、呼応するように戦うその姿に、一線から少し離れたところで二人の攻撃を掻い潜った凶屍を相手にしていた藍思追は、畏敬の念を感じずにはいられなかった。
まだまだ荒削りで力まかせであることを否めない藍思追の剣技と違い、藍忘機のそれは流麗で一切の無駄が無く、魏無羨が術を繰り出す姿はいっそ粛然としている。
まさに静と動だ。
魏無羨が陳情を奏でるとその対比はよりいっそう強いものになる。
平素とは真逆のその姿は、剣を持たない魏無羨を藍忘機が守っているかのようにも見えた。

いつも飄々として一見軽薄そうに見える魏無羨だが、その実、洞察力に長けていて非常に思慮深い。
それが如実に現れるのが夜狩だった。
どちらかと言えば楚々としたその見た目に反して意外にも藍忘機は力で捻じ伏せる方だが、魏無羨はあらゆる視点で物事を考え、時には思いもよらない方略を巡らせている。

義荘を選んだのも理由があったのだと藍思追はこの時初めてそれを知った。
よく見れば、先程まで藍思追らがいた義荘は丑寅の鬼門に向けて紙窓があって邪祟が現れる方角が見渡せるが、向かいの家にはそこに窓は無く分厚い土壁があるだけだった。
あれでは凶屍が現れても気配を感じられず、気付くのが遅れてしまう。
それに義荘の軒先は他の家々よりも僅かに高い上、かつては灯籠を吊るしていたであろう杭が幾つもあって縛仙網を仕掛けるのにうってつけだった。

魏無羨が同行する夜狩では、こうした座学では得られない実践での経験をいつも自然と教えてくれた。
そんな人だから門弟たちから慕われ、藍思追も当然慕っている。
雲深不知処に留まりまだ三月(みつき)にもならないが、魏無羨が夜狩の引率に決まると門弟たちは心なしか浮き足立つのだ。
と同時に、今回は一体何が起きるのだろうかと一抹の不安を感じずにはいられなかったが、好奇心旺盛な子どもたちはそれはそれで楽しみでもあった。

「思追、行ったぞ!」

魏無羨の声にはっとした藍思追は、師である藍忘機譲りの戦い方で目の前の凶屍に蹴りを入れると、再び剣を振るい始めた。

三丈ほど先では藍忘機がもう何度目か知れない青い剣芒を放っていた。
凶屍の一撃を鞘で受け止め、その腹を足で蹴り飛ばすと、今度は身を翻して背後の凶屍に避塵の剣首を打ち込み、返した剣身でその体を薙ぎ払う。
魏無羨が呪符を飛ばして身を屈めると、跳び上がった藍忘機がぶわりと降り立って頭上から一気に避塵を振り下ろした。
一刀両断にした凶屍の体がぐしゃりと音を立てて崩れ落ちる。
それでもまだ途切れることのない凶屍の群れはうぞうぞと不気味に蠢いていた。

呪符だけでは功を奏さないと分かると、魏無羨はいよいよ腰に差していた陳情を取り出し、口元へと運んでそれを構えた。

一声は、闇を震わすような低く厳かな音だった。
何処か物悲しげなその音色は、やがてうねるように甲高く、時に腹の底を擽るように低く、月を隠す叢雲が風に流れて生き物のように形を変えるが如く変幻自在に闇夜に響いた。
この世のものとは思えない、禍々しくも美しい音色だ。
縦横無尽に蠢いていた凶屍の動きが徐々に緩慢になっていくものの、しかし何しろ数が多過ぎる。

(藍湛が一緒に来てくれて正解だったな)

門弟たちだけではどうにもならなかったに違いないと魏無羨は思った。
魏無羨と藍忘機の力を以ってしてもここまで苦戦を強いられるのだ。
町ごと凶屍になったようなあまりの数の多さに、そうならざるを得なかったそこまでの怨念とは一体何だったのだろうかと考えずにはいられなかった。

陳情を奏でながら、魏無羨は自分を中心に旋回するようにして凶屍を薙ぎ払っていく藍忘機の姿を見つめた。

白衣を翻して剣を振るうその姿は、雄々しく舞い踊る武神のようだった。
豊かに広がる袂と幾重にも折り重なる裾が身を返す度に翻り、まるで閃光のように漆黒の闇夜に真白の光を放つ。
藍忘機の剣技は流麗でいながら荒々しく、美しさはもとよりその圧倒的な屈強さは見る者を魅了する。
魏無羨が奏でる陳情の音(ね)に避塵の鋭く澄んだ音が重なり、まるでひとつの調べを奏でているようだ。

魏無羨の陳情に藍忘機の避塵と、二人の宝器と得物が次々に攻撃を繰り出していくものの、如何せん数が多過ぎた。
市中の民が凶屍になっていたとしてももういい加減終わりだろう、あと少しだ、そうあって欲しいと思った時だった。

不意に、藍忘機の背中にたなびく藍白色の抹額の裾があらぬ方へと波打つように翻った。
背後から迫っていた凶屍の爪先がそれへと伸びる。
その瞬間、

「藍湛!」

魏無羨は構えていた陳情を唇から離し、その名を叫んだ。
そうして藍忘機の方へと足を踏み出す。

いつもであれば藍忘機の邪魔にならないように上手く動くのだが、うっかり余計な手出しをしようとしたのは迂闊だった。
魏無羨の声にはっとしたように藍忘機が斜め後ろに飛び退って凶屍の一手を躱す。
その拍子に、行き場を失った魏無羨の身体が僅かに傾いで均衡を崩した。

「!」

しまったと思ったのも一瞬で、次の瞬間には左脚に鋭い痛みを感じて魏無羨はその場に頽(くずお)れていた。

「魏嬰……!」

咄嗟に駆け寄った藍忘機が魏無羨の肩へと腕を回し、その身体を支える。
そうしてそのまま身を翻すと、容赦なく襲い来る凶屍たちを振るった避塵で一瞬にして薙ぎ払う。
冴え冴えとした青い剣芒が閃光のように闇夜に広がった。 

「魏嬰……っ」
「魏先輩!」
「魏先輩っ!」

右から左から聞こえる自分の名を呼ぶ声に、魏無羨は今はそれどころではないと早口で告げる。

「藍湛、俺は大丈夫だ。それより凶屍たちを早く。思追たちだけじゃとてもじゃないが持ち堪えられない」

膝をついたまま再び陳情を構える魏無羨の姿に藍忘機は頷くと、すぐさま踵を返し、凶屍の群れの中へと飛び込んで行った。
魏無羨もまたすぐに陳情を奏で始める。
しかしその音色は先程までとは違い、徐々に精彩を欠いたものになっていた。

じくじくと疼くような鈍い痛みを感じながら、凶屍の爪に襲われた箇所へと目を向ける。
かろうじて急所は避けたものの、見事に左脚の脛が抉られている。
骨が見える程ではないが、引き裂かれた下衣の間から真っ赤な血肉が覗いていた。
だらだらと溢れ出す血があっという間に靴の中までをも濡らす。
これがただの傷ではないことは明白だった。
傷の痛みとは別に徐々に身体から力が抜けていくのが分かる。

屍毒だ。

かつて義城で藍景儀たちが浴びたそれは薛洋が意図的に作り出したものだったが、もともと屍毒は凶屍の体から発生するものでもある。
死体が腐敗して出来る屍毒とは異なり、強い怨念が元となり、凶屍の皮膚や爪、血液が毒を帯びるのだ。
どうやらこの凶屍たちの怨念は相当に深いものだったに違いない。

数々の彷屍や凶屍との死闘を繰り広げてきた魏無羨だが、この身体で屍毒を受けるのは初めてのことだった。
義城では毒を受けることも経験の内だと軽口を叩いていたが、なるほど、確かにこれはなかなかに辛いものだ。
願わくば二度目は無いと期待したいところだが、次に子供たちと一緒に浴びる機会があった時にはまずは避ける方を推奨しようと心に決めた。

「……しくじったな」

目の前で凶屍たちと乱舞するように避塵を振るう藍忘機の姿を見つめながら、魏無羨は一人ごちていた。
仮にもかつては仙術を修行した身でありながら、凶屍の爪を受け、あまつさえ屍毒にあたる等という失態を犯すことになろうとは思いもしなかった。

いつしか陳情は唇を離れ、それを握る手にも力が入らなくなる。
ぼんやりとしていく意識の中で、避塵の澄んだ音が次第に遠ざかっていく。
やがて、ゆっくりと深い水の底に沈んでいくように魏無羨は意識を手放した。





「魏嬰」

頭上から落とされた藍忘機の声に、魏無羨は重く閉ざしていた瞼を持ち上げた。
避塵を鞘に収めたその姿を見て、漸く凶屍の群れが片付いたのだと悟る。
夥しいまでの文字通り屍の山を作り上げた藍忘機は、よく見れば僅かに息を上げているものの、汚れ一つない白衣を纏ったその姿はつい先程まで目の前で暴れ回っていたとは思えない静謐さを湛えていた。
しかしその顔には紛れもない焦燥の色が浮かんでいる。

「魏嬰、しっかりしろ」

あまりの倦怠感にぐずぐずと地べたに崩れかけていた身体を藍忘機が引き上げる。
掴まれた二の腕に痛みを感じるほど、藍忘機の手には力が込められていた。

「……っ!」

強く引き起こされた衝撃で左脚に激痛が走り、魏無羨は息を呑んで硬直した。
黒衣のせいで一見しただけでは分からないが、再び顔を覗かせた月明かりに照らされた左脚はぐっしょりと血に濡れているのが分かった。
ぱっくりと開いた傷口はまだてらてらと不気味に光を帯びている。
藍忘機が魏無羨の元に戻ってきた時にはもう、はっきりそうだと分かるほどに左脚の脛はどす黒く染まり、悪詛痕のようにその患部の範囲を広げていた。
屍毒のせいで傷口からはゆらゆらとした瘴気が薄っすらと靄のように立ち昇っているのが月明かりの中でも見て取れる。

「魏嬰……」

ひと目で屍毒だと察したのだろう。
あまりの痛ましさに夜目でも分かるほど藍忘機の白い顔が雪のように更に白くなった。
藍忘機にそんな顔をさせてしまったことが心苦しく、魏無羨はますます自分が余計なことをしたばかりにと後悔をし始めた。

魏無羨の左脚の傷を見た藍忘機は、懐から取り出した小さな布袋から細かく砕いた葉のようなものを指に取ると、素早くそれを傷口へと振り掛けた。
凝血草だ。
乾いた葉が血を吸い、だくだくと溢れていた血が徐々に黒く固まっていく。
次いで藍忘機はまた懐から今度は折り畳んだ油紙を取り出して開き、小さな黒い塊を摘み上げた。

「魏嬰、これを」

開けろと促され、雛鳥のように素直に開けた口に丹薬を押し込められる。

「んぐ……っ」

飲み込むまでもなく口腔に広がったこの世のものとは思えないほどの得も言われぬ苦々しい味に、途端に魏無羨は顔を顰めた。
舌や喉に至るまでビリビリと痺れるような感覚に涙さえ浮かんでくる。

「な、んだ、この味は……っ!」
「痛み止めと血止めだ」

淡々と告げる藍忘機に魏無羨は顔を引き攣らせた。

(傷を受けた時よりも衝撃的って、一体何なんだ!)

あまりの不味さに気を失いそうになる。
姑蘇藍氏の丹薬はあの味気ない食事同様にこんなにも不味いのかといっそ感嘆するほどだ。
いきんだ拍子にぶり返してきた痛みと口腔に広がる強烈な苦味に、魏無羨は本当に意識が遠ざかるのを感じた。

魏無羨が半ば悶絶するように丹薬を飲み込んだのを見届けてから、藍忘機は脱力した魏無羨を腕の中に抱えながら素早く視線を巡らせた。

「思追」

藍忘機が呼ぶと、門弟たちと仕掛けた縛仙網に捕えられた比較的力の弱い残りの凶屍を片付けていた藍思追がすぐに駆け寄って来る。

「含光君、魏先輩は大丈夫ですか?」

開口一番にそう聞いた藍思追は、藍忘機に命じられたままに縛仙網の凶屍に対峙していたものの、その顔には魏無羨が心配で堪らなかったとはっきりと書かれていた。
呼ばれていながら自ら先に尋ねてしまった無礼を考えている余裕も無いようだ。
尤も、藍忘機の方も今はそんな些末なことを気にしている余裕は無かった。

「屍毒に侵されている」
「屍毒?」

藍思追は途端に顔色を変えた。

「解毒剤はありますか?私たちが携帯している薬類にはありません」

狼狽を滲ませた顔でそう尋ねる藍思追に、藍忘機は静かに首を横に振るだけだった。
それを見た藍思追の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。

凶屍が屍毒を発するまでになるのは余程の怨念が必要だ。
訴状ではそこまで汲み取れなかった上、今回の夜狩は藍忘機と魏無羨が同行する為、さほどの備えをしていなかったことが禍(わざわい)となってしまった。

「霊力を送り込むだけでは足らない。解毒剤が必要だ。すぐに戻る」

藍忘機の言葉に藍思追はしっかりと頷く。

「分かりました。あとは縛仙網の中だけですから大丈夫です」
「決して油断しないように」
「はい」
「終わったら鎮魂の為の『安息』を」
「心得ています」

緊張した面持ちでいながらすっかり頼もしく成長した藍思追の姿に藍忘機は微かに眦を和らげると、またすぐに表情を引き締めて魏無羨の身体を抱え上げ、すっくと立ち上がった。





自らの力では立っていることも出来ない為、藍忘機は魏無羨の体を正面から抱きかかえるようにして御剣していた。
片手で腰を支え、片手でだらりと下がった腕を掴んでいる。
剣の上では均衡を保つ為にも出来るだけ同じ体勢でいることが必要だ。
ただ空中で浮かんでいるだけであればどんな体勢でもさほど影響は無いが、飛行するとなると話は別だった。
触れるほどすぐ目の前で、血の気を失ってみるみるうちに紙のように白くなっていく魏無羨の顔は、金麟台で金凌に腹を刺されたあの時を藍忘機に呼び起こさせた。

だがしかし当の本人である魏無羨がそれを知る由もない。
屍毒が回ったせいか意識を失い、気付いた時には飛行する仙剣の上にいた。

「藍湛……?」
「目覚めたか」

薄膜が張られたようにぼんやりとする頭で目を開けた途端、直接耳朶に注ぎ込まれるような低い声と、視界がぼやけるほどの近過ぎる距離に藍忘機の顔を見留めて魏無羨はにわかに驚いた。
次いで、懐かしい独特の浮遊感を感じて目を瞠る。

「な、んだ?御剣しているのか?」

魏無羨の問いに藍忘機は黙って首肯すると、腰に回していた手に力を入れ、その身体をしっかりと抱え直した。

「!」

その感触に思わずびくりと身体を震わせる。
途端、左脚に鈍い痛みが走り、魏無羨は堪らず藍忘機の肩口へと顔を埋めた。
ぎゅっと目を閉じて痛みを堪え、その波が去るのを待つ。

「魏嬰……」
「……大、丈夫だ」

明らかに狼狽の色を含む藍忘機の声に、魏無羨は漸く顔を上げると微かに笑みを浮かべて見せた。
しかし額にじっとりと脂汗を浮かべたその顔は功を奏さなかったようだ。
眉を寄せた藍忘機の顔にいつもの静謐さは無い。

「魏嬰、寝ていて構わない。身体に障る、大人しくしていろ」

過剰なまでにその身を案じ、深く懊悩するような表情で自分を見つめる藍忘機の様子に魏無羨は居ても立っても居られなくなる。

「藍湛……、なあ、そんなに急がなくて大丈夫だ。これくらいなら宿で休めば」
「駄目だ」

魏無羨の言葉を遮った藍忘機は、続けて「丹薬が足りない」と敢然と言った。
冷ややかにも聞こえるその声には未だ焦燥も感じられる。
少々厄介な屍毒であることは受けた魏無羨が身をもって感じていたが、藍忘機がそうまで言い切るのだから確かに予断を許さない状況であるのだろう。
夜狩には危険がつきものだということは分かっている為、特に修為の低い門弟が付従う時には必ず薬類を携帯しているのだが、効果が高いものはその中には無かったようだ。
決して油断していたわけではないが、今後、夜狩の際に所持する薬類を見直す必要があると魏無羨は鈍い痛みで回らない頭で考えを巡らせていた。

そうは言ってもこの状態はやはり辞さなければならない。
深手は負っていないとは言え、あれだけの数の凶屍の相手をした上に、人ひとり抱えた状態で長時間の御剣を続けることはいくら藍忘機ほど修為の高い仙師であっても相当な負担である筈だ。
おまけに、非常に安定しているので揺れ一つこの身に感じることは無いが、流れる景色を見るからに通常よりもかなり速い速度で飛んでいることが窺える。
このまま一気に雲深不知処まで飛び続けるつもりだろうか。
さすがにそれは無謀過ぎる。
「藍湛、でも、俺を乗せて御剣し続けるのはお前だって負担が」
「寝ていろ。体力を消耗する」
またもや藍忘機に遮られ、魏無羨は小さく嘆息するしかなかった。
同時にその為の丹薬でもあったのかと合点がいった。
確かに屍毒は回っているものの、傷自体は臓腑を貫く急所でも何でもない為、耐えられないほどではない筈なのだが、先程からどうにもこうにも眠くて仕方がない。
次第に指を動かすことすら億劫になる。
飲まされた丹薬には眠りを誘う効能も含まれていたのだろう。
再び薄墨の中を彷徨うように次第に意識が朦朧としていく中、
「藍湛……」
魏無羨はその名を呼びながら静かに瞼を落とした。

※続きはpixivで


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