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『二年目の梅酒の話』







透き通った淡い琥珀が陽光に揺らめく。

甘やかで芳醇な香り。
まろやかでこくのある豊かな味わい。
やわらかな舌触りは絹のようでどこまでもなめらかだ。

「好喝」

一年熟成された極上の梅酒で満たした青白磁の杯を傾けながら、魏無羨は翠雨の露をまとった青梅を手の中で転がしていた。

開け放した格子戸の向こうでは、青々とした新緑の葉に滴る雫が陽の光を浴びて玉のように煌々と輝いている。
さあさあと降り続く雨が奏でる軽やかな音階が耳に心地よい。

ほんのり赤みが差した若梅は青々とした芳しい香りを放ち、天鵞絨 のような肌触りはついつい指を滑らせたくなる。
ひとしきり手のなかで転がして感触を楽しんだ後、突然の通り雨に濡れてしまったその実を脇に除けると、魏無羨は筵に広げた乾いた別の梅の実を手に取り、また一つ、竹串の先でへたを飛ばす。
ぴんと弾かれるようにして露台へと飛んだそれは、明日にはきっと鶲に啄まれて無くなっているに違いない。
へたを取った実は乾いた笊に並べていく。

露台に続く静室の床の上に広げた筵には、一面の青梅が転がっていた。
みずみずしい萌黄色にほんのりと薄紅がさした梅の実はまるまるとしてどこか愛らしい。
昨日、雲深不知処の裏山で採れたばかりのそれは、魏無羨が梅酒を漬ける為に用意したものだ。
年端も行かない門弟たちを連れて山に入り、たわわに実った青梅を篭いっぱいに摘み取った。
半分ほどは酒が飲めない子どもたち向けの砂糖漬けにする為に厨に渡し、残りの半分を静室に持ち帰ってきたのだ。

この梅は大きい。
この梅は小ぶりだが香りが良い。
と、ひとつひとつ丁寧にへたを取りながら、魏無羨は次第に晴れていく空を見上げた。
翳る間もなく突然降り出した通り雨はもう既に上がっている。
雨上がりの日差しが今は眩しいほどだ。
庭先の青々とした木々の葉から滴る翠雨の雫が陽光に煌めく様を見やりながら、魏無羨は何処か待ち遠しげに、此処にはいない男のことを考えていた。 

藍忘機が雲深不知処を出て今日で七日になる。
仙門世家を纏め上げる重責を担ったその身は多忙を極め、仙督としての用向きで各地に呼ばれることも多く、来訪を望む嘆願の雁信は枚挙にいとまがない。
朝から晩まで執務に追われ、その合間に子弟たちの為に教えを説き、必要とあらば夜狩へと赴く。
この雲深不知処に居を置いて一年ばかりになるが、数日顔を合わせないこともざらにあり、その多忙さは魏無羨も身をもって知っていた。

そんな藍忘機が様々な用向きで雲深不知処を空けて遠方に赴く際、よほどのことが無ければ事前に告げられた日にちよりも早く帰ることが殆どだった。
五日かかると言えば四日で帰って来るし、四日かかると言えば三日で帰って来る。 
もともと人の多い場所や余人との接触を好まない性分の為、慣れ親しんだ雲深不知処の居心地が良いのだろうと魏無羨は思っていた。
それがそこにいる人に会いたいが為とは露ほども思っていない。

今回は清河での清談会であり、十日ほど空けると聞いていたので、早くて明日、遅くとも明後日には帰って来るに違いないと踏んでいた。 
夜狩で赴くわけではない為、霊力を温存する必要もなく、御剣を使えば行き帰りは格段に早くなる。
それでも、ただ何となく、もしかするともう少し早く帰って来るのではないかとも思っていた。
何より魏無羨が藍忘機に会いたいと思っていた。
顔を合わせることがなくとも、静室で共に暮らしていれば日々の節々にその存在を感じることが出来るが、不在の際はそれが叶わない。
藍忘機が此処にいないというだけで、どうしてかうら寂しい心持ちになるのだ。


そんなことを考えながら一炷香ほどへたを取り続け、大笊にずらりと梅の実が並んだ時だった。 
視界の端に新緑の木立に囲まれた影竹堂の門を潜り抜ける白衣を纏った姿を見留め、魏無羨は弾かれたように立ち上がった。

「藍湛っ!」

その声にゆるやかに面(おもて)を上げたのは、待ち侘びていた藍忘機その人だった。
ゆっくりと通り雨に濡れた飛石の上に歩みを進めるその姿に魏無羨は足取りも軽やかに駆け寄ると、

「藍湛、お帰り」

そう言って笑いかけた。
うんと首肯する藍忘機の顔にも淡い笑みが浮かんでいる。
久しぶりに見る顔は長旅の僅かな疲労も感じさせないほどに相も変わらず美しい。
七日ぶりということもあり、その顔を見るだけで自然と笑みがこぼれてしまうのを魏無羨は止められなかった。

「さっきまでの通り雨が上がったのはお前が帰って来たからかな。お前が太陽を連れて来たみたいだ」

思いがけず藍忘機が早く帰って来たことが嬉しくて、意図せずにその体ははしゃぐようにゆらゆらと動いてしまう。
豊かな黒髪を結い上げた真っ赤な髪紐が、背中であちらこちらに向かって跳ねるように揺れていた。

「藍湛、随分早かったな。十日かかるって言ってなかったか?」

予想していたよりも更に早く戻ったことを不思議に思い、首を傾げて問いかける魏無羨に、

「早く終わった」

藍忘機はそう短く返すに留まった。

年に一度、仙門百家が集まる清談会が予定より早く終わる筈もない。
漸く安寧の世となった今でも各地での邪祟の発生は後を絶たず、その報告や討議だけでもそれなりに時間はかかる上、清河での挙行は数年ぶりだったこともあり、宗主である聶懐桑が用意した数々のおもてなしと酒宴は聶氏再興を知らしめる為にも必要で、贅を尽くしたものだったに違いない。
尤も、そういった酒宴を好まない藍忘機が後期三日三晩は続く酒宴に参列することが辛苦以外の何ものでもないことは想像に難くない。
その為、藍氏として、仙督として顔を立てる為に前二日は参列し、最後の酒宴は辞退して一日早く帰って来るだろうと予想していたのだ。

しかしそんな些末なことは今はどうでも良い。
こうして藍忘機が此処にいることが魏無羨は嬉しかった。

「そうか、俺も早く会いたいと思っていたんだ」

零れた本音を屈託ない笑みと共に告げる魏無羨に、藍忘機が面映ゆそうに小さく頷く。
重なり合う視線が優しく、魏無羨はたちまち自分が発した言葉に気恥ずかしさを感じた。
随分とあけすけなことを言ってしまったものだ。
常であればいつもの戯言と流して気にもならないのだが、こうして久方ぶりに顔を合わせるとどうにもこそばゆい。

次いで何を言おうかともごもごと口を動かしながら視線を彷徨わせていると、ふと、藍忘機の白衣の袂から覗いている房飾りに目が留まった。
その手にある、薄墨色の風雅な陶器に濡羽色の結紐をかけた酒壺には見覚えがある。
魏無羨の視線に気付き、

「土産だ」

そう言ってそれを掲げて見せた藍忘機の顔には微かな笑みが浮かんでいた。

「叢台酒じゃないか!」

魏無羨は思わず声を大きくした。

遊歴中に出会ったその酒を先の夜狩で邯鄲かんたんに出向いた際に久方ぶりに味わい、魏無羨がいたく気に入っていたのを覚えていたのだろう。
手に提げているのは二口(こう)だが、乾坤袖にはまだ十口ほど収まっているに違いない。
わざわざ二口を手に提げて持ち帰るのは、喜色満面の笑みを浮かべて喜ぶ魏無羨の顔が見たいが為だということを当の本人は知る由もない。
はたして想像通りの反応だったのだろう。
藍忘機の顔は何処か満足げだった。

「この前の夜狩以来だな。あの時はあまり持ち帰れなかったからまた飲みたいと思っていたんだ」

不浄世から邯鄲まではそれなりに距離があるのだが、清談会の合間を見てわざわざ足を運んでくれたのだろう。
邯鄲の町の酒舗で、一人、叢台酒を買う藍忘機の姿を思い浮かべただけで、魏無羨は堪らなくあたたかい気持ちになった。
こうして何くれとなく自分を気にかけてくれる藍忘機の気持ちが嬉しい。
何故、どうして、という疑問はもうなくなっていた。
そこに見返りを求められているわけでもない。
魏無羨がそうであるように、藍忘機も自分を思ってくれているだけなのだ。
一年余りを共に過ごし、今や魏無羨はその気持ちを素直に受け止められるようになっていた。

だから、伝える言葉は一つしかない。

「藍湛、ありがとう」

魏無羨の言葉に藍忘機は変わらず鷹揚と頷くだけだった。
そんな藍忘機の手から叢台酒の壺を受け取ると、

「でもこれを飲むのは夜にしよう。今日は特別な酒を開けていたんだ」

魏無羨は藍忘機の腕を掴んで静室へと誘いざなった。
いつものように片手を背中に回したまま悠々と足を進める藍忘機を急かすようにして、魏無羨は階きざはしを上がり露台へと藍忘機を導く。
開け放した格子戸の中、室内に広げた筵や笊いっぱいの梅の実を見やった藍忘機が、

「これは?」

そう聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに胸を反らし、

「梅酒を漬ける」

魏無羨は意気揚々と答えた。
そうして青々とした梅の実を見下ろしたままそこに佇む藍忘機の脇を擦り抜けると、卓の上に置いた白磁の甕から琥珀色の梅酒を柄杓で掬い取り、杯になみなみと注ぐ。

「なあ、藍湛。せっかくだ、呑まないか?」

勢いよく掲げた拍子に杯から零れ落ちた滴が衣の袖を濡らしたが、それを気にかけることもなく魏無羨はどかりと卓の前に腰を下ろした。

「去年漬けた梅酒だ。一年経って熟成されていい味になってる。梅酒は氷砂糖を入れて漬けるから甘くて飲みやすいんだ。酒が苦手なお前でも飲めると思うぞ?」

そもそも藍忘機が酒に弱いのはその味のせいではないと思うのだが、何となく、そう言えば飲んでくれるのではないかという気がした。

「砂糖が必要なのか?酒なのに?」

不思議そうに首を傾げる藍忘機はどこか幼く、頑是ない子供のような顔をしている。
今や仙の域とも言われるほどの、この世の全てを知っているような男にも知らないものがあるのかと思うと、たちまち魏無羨は楽しい気分になった。

「うん、砂糖を入れないと果汁が沁み出ないから味も香りも全く違うんだ。蓮花塢にいた頃、いろいろ試したんだけどやっぱり梅酒だけは砂糖入りじゃないと美味くなかった。それもただの砂糖じゃなくて黄氷糖でないと駄目だな」

そう言って卓の脇に並べていた龜から淡黄色の小石ほどの結晶を掴み取って見せる。

「綺麗だろ?」

陽の光を浴びて眩いばかりに輝くそれは、まるで温かい色の玉のようだった。

「洗った梅と黄氷糖を龜に入れて、あとは天子笑を注ぐだけだ。三月くらいで飲めるがもっと寝かせたほうが断然美味い」

カラカラと手の中の黄氷糖を再び龜に戻しながら、

「ちょうど一年前に漬けた梅酒を味わいながら今年の梅酒を漬けるなんて粋だろ?」

そう言って魏無羨は笑った。

櫟陽の宿で酔った藍忘機が数々の寄行に走った際に、二度と酒は飲ませまいと誓ったことを魏無羨はすっかり忘れているわけではなかったが、どうしてかこの酒は藍忘機に飲んでもらいたいと思った。

静室で共に暮らすようになって一年(ひととせ)。
魏無羨が遊歴から戻って間もない頃、初めて漬けたのがこの梅酒だ。
雲深不知処の裏山を散策している時にたわわに実をつける梅の木を見つけ、姑蘇の名酒である天子笑で漬けた。
そう言えばあの時は仙督の用向きで藍忘機が出掛けていた時だった。
留守の間に漬けた梅酒は寝かせる為にすぐに床下に収めてしまった為、作った話だけを後からしたのだ。
しかしそこは藍忘機だ。
魏無羨が忘れていたそのことを藍忘機が忘れている筈もなく、そうだったとばかりに頷いている。
作る工程を見るのは初めてだった為、先の問いになったのだろう。
あの時は一人だったことを考えると、藍忘機と時を共にしながらニ年目の梅酒を作れるのは望外の僥倖で、喜びもひとしおだった。

「な、藍湛。清談会から戻ったばかりで今日はもうさすがに執務もないだろ?いいから飲んでみろ」

言葉巧みに誘う魏無羨に促されるままに藍忘機は卓の向かい側へと回ると、裾を広げ、袂を払って、優雅な所作で腰を下ろした。
手の中で揺らめく琥珀を暫し眺めた後(のち)、しなやかな手付きで青白磁の杯を持った藍忘機は、楚々とした見た目に反する豪快さで一気にそれを煽った。
そうして間もなく、ぱたりとその顔を卓へと伏せてしまう。

「ははははは、藍湛、やっぱりそうか!」

思わず無遠慮な笑い声を上げる魏無羨を厭うこともなく、藍忘機は白い頬に長い睫毛の影を落としたまま微動だにしなかった。
出会った頃から変わらず酒に弱い。
その酔い方も全く同じで、杯を空けるとまずは眠りに落ちてしまう。
うわばみの魏無羨にはたかだか一杯でこうまで酔えることも不思議だが、かつて出会ったこともない奇妙な酔い方は何度見ても愉快でこの上なかった。

「藍湛、藍湛っ」

ぺちぺちと指の背で藍忘機の滑らかな頬を叩きながら、魏無羨は杯を片手にその美しい寝顔を存分に味わった。
無防備な姿は自分だけに見せる特別なものだと知っている。
酔っても顔色一つ変わらない藍忘機だが、しかしこうして間近で見ると、その目元や形の良い耳が微かに淡紅色に染まっているのが見て取れる。
それは玉のように透き通った白い肌とはいかにも対照的で、時に作りものめいて見える白皙の美貌を常人たらしめていた。

「ふふっ」

思わず零れる笑いが葉擦れの音に混ざって消えていく。
穏やかに流れる時を感じながら、

「藍湛」

魏無羨は藍忘機の寝顔を見つめながら三度(みたび)その名を呼んだ。


暫くの間は目を覚まさないであろう藍忘機の姿を横目に、魏無羨は床の上に広げていた梅の実を筵ごと卓の脇へと引き寄せると、再びへた取りを再開することにした。
ころころと転がる青梅を手遊びながら、一つ、また一つと竹串で器用にへたを飛ばしていく。
鼻歌混じりに作業を繰り返し、半炷香もしない時だった。
ぴんと弾かれたへたが筵とは逆の方向に飛んでしまい、それは偶然にも藍忘機の白い頬へと当たって落ちた。
卓に肘をつき、片膝を立てて一心に動かしていた竹串を持つ手が思わず止まる。
そうして覗き込むようにしてその顔を見やると、案の定、折りよく藍忘機が目を覚ましたところだった。

「藍湛、起きたか?」

まだ虚ろなその顔は、目が覚めただけで酔いが醒めたわけではないのは明らかだ。
鋭い眼光はなりをひそめ、焦点の合わない双眸はとろりとしている。

「藍湛?」

あまりの無防備さに魏無羨は楽しげに呼び掛けた。
返事は無いが、名を呼ばれる度にぱちぱちと音がしそうなほどの瞬きを繰り返すのが何処か可愛らしい。

「藍湛、おーい?」

そうして幾度となく名を呼び、手にした竹串をゆらゆらと目の前で振ったりとしていた時だった。
おもむろに伸びた藍忘機の手が魏無羨の左手をはっしと掴むと、

「……手が冷たい」

唐突にそう言った。
自分を真っ直ぐに射るように見つめるその眼差しは思いがけず真剣だ。

『何故、手なんだ?』

藍忘機の突飛な言動に大きな目で瞬きを繰り返した魏無羨は、ふとそれに思い当たる。
傍らにずらりと並べた甕を見やりながら、通り雨が降る前にそれらを洗った井戸水の冷たさを魏無羨は思い出した。

「ああ、さっきまで甕を洗っていたからな。雲深不知処の水は冷たいよな」

冷泉ほどではないとは言え、もうすぐそこに夏も近づいているこの時期に指先を浸し続けることも難しい水の冷たさはなかなかに堪えた。
確かに少し念入りに洗っていたのは否めず、時間をかけ過ぎていたのかもしれない。

「冷やしてはいけない」

憂慮の表情を浮かべてやけに真剣な眼差しで魏無羨を見つめる藍忘機が、その手に力を込めた。

「そんなに冷たいか?」
「指先が冷たい」

藍忘機は神妙な面持ちで魏無羨の手をずっと握りしめている。
玉のように白く透き通る長い指は嫋やかに見えるが節が目立ち、その掌は大きく雄々しくもあり、身丈もさほど変わらず決して小さくは無い魏無羨の手をすっぽりと包んでしまう。
掌の皮は硬く、それは紛れもない剣を握る男の手だった。
この手に幾度となく助けられ、支えされたことは数知れない。

「……藍湛、離してくれないか?」

あまりにしっかりと握られている為、魏無羨は乞うようにそう聞いてみたが、藍忘機は小さく首を横に振るだけだった。
それどころかやにわにもう片方の手が重ねられ、両手で更にしっかりと握られてしまった。

藍忘機の唐突な行動に苦笑を浮かべながら、ふとその理由に思い至る。

「もしかして、温めてくれているのか?」

魏無羨の問いに、藍忘機は間髪をいれずにうんと首肯した。

「ははっ、藍湛、お前ってやつは」

あまりにも可愛らしい藍忘機の行動に魏無羨は堪らず破顔していた。
どちらかと言えば体温が高いのは魏無羨の方で、水を使って多少冷えていたとはいえ、普段からひんやりとした手を持つ藍忘機の手よりは十分に温かい。
こうして手を握られていると寧ろ熱を与えられていると言うよりは与えているようだ。
温かい魏無羨の手と冷たい藍忘機の手の体温が混ざり合い、互いにゆるやかに伝わっていくのが分かる。
それはひどく心地のよい感覚だった。

藍忘機に大人しく手を握られたまま、魏無羨はにこにこと藍忘機の顔を見つめる。
藍忘機もまた、神妙な面持ちのまま魏無羨を見つめていた。
そうしておもむろに、

「一年経った」

ぽつりとそう呟く。

「そうだな、早いよな。また姑蘇の梅酒が作れるなんて嬉しいよ。天子笑の梅酒とはこれ以上ないくらいに贅沢だ。来年も楽しみだな」
「来年……」

小さな子供のように魏無羨の言葉を繰り返す藍忘機は当然のことながらまだしたたかに酔っているようで、真面目くさった顔をしていながらこんな時は何処か素直にも見える。
ふと、魏無羨はそれを聞いてみたくなった。

「なあ、何でこんなに早く帰って来たんだ?」

俺に会いたかったのか?と軽口を叩く魏無羨に、藍忘機は時を置かずして真顔で頷いた。
酔った時の藍忘機は実に簡明直截だ。
自分で聞いておきながらどうにも照れくさい気持ちを抑えられず、魏無羨が視線を彷徨わせていると、今度は藍忘機が尋ねた。

「今日という日が何の日か?」

知っているかと問われて、首を振る。
何の日かと聞かれて魏無羨が答えられるのは祭が行われるような節句の日くらいだろう。
それも町中で飾り付けが始まったのを見て漸くそうだと気付くのだ。
それくらい魏無羨は暦の何たるかにひと欠片も興味がない。

暫しの沈黙の後、

「お前は本当に物覚えが悪い」

しみじみ呟いて小さく嘆息する藍忘機に、魏無羨は顔を顰めて鼻白んだ。

「今に始まったことじゃないだろ」

魏無羨の物覚えの悪さは筋金入りで、何よりそれを一番よく知っているのは藍忘機だ。
何を今更言うのかと鼻の頭に皺を寄せながら口を尖らせていると、

「一年だ」

藍忘機が再びそう言った。

「今日で一年だ。私がこの日を忘れることは一生涯ない」

あまりに真剣な面持ちで真摯に告げられた言葉に、魏無羨は真顔で藍忘機を見返した。
そうして時を置かずしてその答えに辿り着く。

「……俺が遊歴から戻った日か?」
「そう」

おずおずとそれを口にした魏無羨に、藍忘機は何の躊躇いもなく頷いた。

漬けた梅酒が一年経った。
あの日も梅雨入り間近のよく晴れた初夏の日だった。
魏無羨とて全てを忘れているわけではない。 
魏無羨にとってもあの日は特別だ。
だがそれでも物覚えが悪いのは今に始まったことではなく、大体一年くらいという認識でしかなかった。

考えてみれば藍忘機がそれを忘れている筈もない。
思い返せば清河に旅立つ際、何処かもの言いたげな表情で見送る魏無羨を見つめていた。
いつもはすんなりと出て行く藍忘機が僅かに躊躇いを見せていたのはこの為だったのかと、魏無羨はこの時漸く悟った。

「魏嬰」

囁くように名を呼ぶ藍忘機の声が優しい。
そうしてたっぷり間を置いてから、

「この先もお前と共にありたい」

掻き口説くように告げられた飾り気のない無骨なそれは、けれどどんな言葉よりも魏無羨の心を震わせた。

一年(ひととせ)という決して短くはない時間を共に過ごしてきた。
一処にじっとしていられない性分の魏無羨が此処に居続ける理由はたった一つしか無い。
魏無羨ももうとっくにその理由に気付いていた。
何より此処に戻ることを選択したのは魏無羨自身に他ならない。

けれどこの想いにつける名前を魏無羨はまだ知らない。
それでも、これだけは伝えたいと思う。
たとえ明日には藍忘機が一切忘れているとしても、今伝えたい。
伝えなければならないと思った。

「藍湛」

名を呼ぶ声が微かに震えていた。

「来年も再来年も、三年後も五年後も十年後も、ずっとずっと、お前のそばにいる。何より俺がお前といたいんだ」

だから、と魏無羨は言葉を続ける。

「お前のそばにいさせてくれ」

その言葉に一瞬目を瞠った藍忘機は、やがて羽根のようなやわらかな笑みをふわりと浮かべると、満足そうにこくりと頷いた。
玉の如き白く透き通る顔(かんばせ)に花が咲いたようなその笑みに、魏無羨は思わず息を呑む。
もうすっかり見慣れた顔であるのに、その美しさはかくも閑麗で筆舌に尽くしがたい。

そうして藍忘機はひとしきり花のような笑みを浮かべたまま魏無羨を見つめると、不意に瞼を伏せ、握りしめた魏無羨の指先にそっと唇を押し当てた。

「……っ!」

突然訪れたやわらかいその感触に、魏無羨の頬がぶわりと朱に染まる。
あまりの熱さに、魏無羨は溜らずに自由な右手の甲で乱暴にごしごしと頬を擦った。
そんなことで熱が引くとは思わなかったが、居ても立っても居られず、そうせずにはいられなかった。

自分の左手を握り締めたまま、瞼を落として卓の上に顔を伏せ、心地よさそうに再び眠りに落ちてしまった藍忘機の姿を見やりながら、魏無羨は大きく息をひとつ吸ってからそっと吐息を零す。
床一面に転がった青梅に差した朱がまるで自分の頬のようで居た堪れない。

視線を逸らした先には、翠雨に濡れた青葉が初夏の風に揺れていた。
もうすっかり聴き慣れた若竹の葉擦れの音が耳に心地よく響く。
鶲の囀りもいつの間にか聴き分けられるようになっていた。 
真っ白な玉砂利が照り返す日射しの眩しさも、竹林の先に抜けるように広がる青空も、露台の下に広がる陽の光を反射する池の水面(みなも)も、そこに佇む優美な黒鶴の姿も、もう当たり前のことのように見慣れている。

また来年も、此処でこうしてこの景色を見ていたい。
来年も、再来年も、その先もずっと。

そうしてその隣には、藍湛、お前にいて欲しい。

そんなことを思いながら魏無羨は再び藍忘機へと視線を向けると、左手をそっと手繰り寄せ、自分の手をしっかと握るその白く長い指へとぎこちなく唇を寄せた。
いつもは温度を欠いた冷たいその指が、今は少しだけ熱を持って生(せい)を感じさせる。

その温もりが、堪らなく愛しかった。




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