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「あの夏の邂逅」



姑蘇の夏は暑い。

山深い場所にある雲深不知処には清流が流れ、麓の町よりは涼しく感じるものの、梅雨が明けたばかりの今は湿った風も吹き、いくばくかの蒸し暑さを感じずにはいられなかった。
雲夢の酷暑に慣れた身でも、まだ始まったばかりの暑さにはなかなか慣れるものではない。

魏無羨が遊歴から戻って、初めての夏を本格的に迎える。


あの山頂での別れから六月(むつき)。
冬を越え、寒さが過ぎ去り、春風が吹き、青々とした緑が生い茂るようになった頃にはもう、魏無羨は藍忘機に会いたくなっていた。
また会おうと言ったものの、今や仙門世家をまとめ上げる仙督ともなった藍忘機に気軽に会えるとは思ってもいなかった。

仙督という重荷を自ら背負ったのは藍家の為か、それとも先の事件で心を痛めた兄の為か。
いずれにしても、あの時、藍忘機が選んだのは魏無羨ではなかった。
共に行くことも、自分を引き留めることもしなかったのがその答えだと思っていた。

あの日の誓いを全うする為。
たとえ袂を分かっても生涯の知己であることに変わりはない。
藍忘機は一時の衝動のままに行動する男でもなければ、魏無羨のように自由の身でもない。
そう理解していても、藍忘機の選択はどうしてか魏無羨の心を深く抉った。

そんな身でありながら、たった半年ばかりですぐにこの地に足を踏み入れることに迷いも躊躇いも無かったわけではない。
厚顔を自称していながらも、どうやらまだ自分にも羞恥心というものは残っていたらしい。

それでも。
ただひと目会えれば。
そう思って雲深不知処を訪れたあの日、思いもかけず魏無羨を迎えてくれたのは藍忘機だったのだ。

近くを通ったから。
天子笑が飲みたくなったから。
我儘なリンゴちゃんが姑蘇の草以外を食べたがらないから。

取ってつけたようなそんな言い訳を並べてすぐに去ろうとした魏無羨を、けれど藍忘機は許さなかった。
大梵山で再会したあの日のように、しっかりと掴まれたあの手の強さを今も忘れられない。


『此処にいればよい』

藍忘機にそう言われ、静室で居を共にするようになって早や二月(ふたつき)。
暫くは魏無羨もそれなりに大人しくしていたのだが、結局生来の悪戯好きな性格は変わらないものだ。

前日までの戻り梅雨が上がったその日。
いつものように巳の刻に漸く起き出した魏無羨は、晴れ渡った青空を眺めながらも何処かに出掛ける気も起きず、珍しく静室に留まっていた。
ほどなくしてその日の執務を早々に終えた藍忘機が戻ったのを機に、このまま此処で過ごすのも悪くないと思う。

口数の少ない藍忘機とでは他愛も無い会話を楽しむことも出来ないが、まだ話しきれていない遊歴中の出来事や、子弟たちの夜狩に同行したこと、町に下りた時の出来事などを魏無羨が一人でつらつらと思いついたままに話し、藍忘機がそれに二言三言返してくれるだけで十分楽しかった。

遊歴中はロバしか話し相手がいなかったのだからそれも無理からぬことだ。
そもそも出会った頃から藍忘機の口数の少なさなど大して気にはしておらず、魏無羨にとっては些末なことだった。
無口で無表情の藍忘機の僅かな反応を見るだけで良かったし、そうさせるにはどうすれば良いのかを飽きもせず考えるだけで毎日が楽しかった。

あの頃よりも機微が表れるようになった顔はいくらかは分かりやすくなったものの、口数の少なさは今も変わらない。
たとえ魏無羨が一炷香喋り続けたとしても、藍忘機から返ってくる言葉は両手で数えられるほども無いに違いない。
けれどその数少ない言葉が時には思いもよらないようなものでもあり、藍忘機と話すことに魏無羨が飽くことはなかった。


そんな藍忘機と穏やかな時間を過ごしながらも、何もしないままゆるゆるとした時が一時辰もすると魏無羨は次第に退屈になってきた。
夕餉の酉の刻にはまだ時間がある。

そうして思いついたのが虫干しだった。
昨日までの長雨で心なしか室内が湿っているように感じるのは気のせいではない筈だ。

魏無羨の突然の思いつきに、藍忘機はと言えば特に異論も唱えず、かたちばかりの許しを得ながら魏無羨があれもこれもと静室中を引っかき回し、ぞんざいに広げる書物を整然と並べ直しながら後に付いて回っていた。

虫干しと称して何か面白いものはないだろうかと魏無羨が書架や行李を漁っていた時、それは見つかった。

牀榻の布帛の帳の裏に隠れるように配置された紫檀の書架の一番下。
目に留まり難い場所にひっそりと置かれたそれは、艷やかな飴色をした品の良い渋張行李だ。
他のどれとも違い、とても丁寧に扱われながらも幾度となく開かれたであろうそれは、繰り返し手が触れる場所だけが濃い暗褐色に染まっている。

「この行李も書物か?」

そう聞きながらも返事を待つことなく手は既に蓋を開けていた。
魏無羨の声にゆるやかに振り返った藍忘機が、はっとしたように僅かに目を見開く。

「魏嬰……っ」 

珍しく狼狽を滲ませた声に思わず手が止まった。
幾度か瞬きをして見つめるものの、藍忘機の視線はうろうろと魏無羨の手元の行李と床とを彷徨い、一向に交わる気配がない。

こんなにも動揺を露わにした藍忘機を見るのは初めてだ。
否、一度だけある。
櫟陽の宿屋で酒に酔った藍忘機が数々の奇行を繰り返し、一夜明けた時のあの顔だ。

今や仙督となり、常日頃から泰然とした姿勢を崩さない男が不意に見せた顔に、むくむくと悪戯心が湧き上がる。
言外に中を見るなと訴えかけているその顔に気づかないふりをして、魏無羨は床に座り込むと嬉々として行李の中身を広げていった。

「何だ何だ藍湛、そんなに慌てるなんて何を隠している?」

まさか春画でも隠しているのかとにわかに楽しい気分になり、中を漁る手が自然と急いたものになっていく。
だがしかし、そんな期待に反して、行李の中に丁寧に納められていたものは僅かに黄ばんだ古びた書ばかりだった。
それも書かれているのは何の面白みもない、藍氏の家規ではないか。

「何でこんなものがわざわざ仕舞われているんだ?」

一枚一枚取り出して広げて見るものの、何枚繰り返しても全く同じものしか表れない。
藍氏礼則から始まるそれは、座学時代に懲罰として課され、幾度となく書き写したことのある魏無羨には最早馴染みの文節だった。
今でも諳んじることが出来るほどだがそれは決して人に自慢出来るような理由ではない。
だがそんなことをまるで他人事のように思っている魏無羨は、自分以上にこの家規を一言一句すっかり暗記しているだろう藍忘機がこの書を大事に保管していることを不思議に思うだけだった。

最後まで同じものしか無いのかと、重ねられた書を広げることにいよいよ魏無羨が飽きてきた頃、不意にそれは現れた。

行李の底に近い場所から出てきたのは、一枚の絵だった。
墨一色で描かれたそれは、見目麗しい男の凛とした座姿を描いたものだ。
若竹のように真っ直ぐに伸びた背中と、清流の如く真っ直ぐに流れる髪が見事にその男の人となりを表している。
しかし手にした易経とは似つかわしくない、まるで簪のように髪に添えられた一輪の花が、その絵を何処か不思議なものに変えていた。

それは、座学時代に魏無羨が藍忘機を描いたものだった。

「藍湛、お前……あんなに怒っていたのに大事に取っていたのか!」

思わず上げた声に、端坐していた藍忘機の肩が僅かに揺れる。
目を向けると、玉のような白皙の美貌は常と変わらずとも、こんなところまで美しいのかと思う形の良い耳が陽光に照らされて薄っすらと淡紅色に染まっていた。
逸らされた視線は魏無羨を決して見ようとはせず、穴が開くのではないかというほどに床板の一点を見つめるばかりだ。
色を失うほどにきゅっと閉じた唇が何処か幼く見える。

腹を抱えて笑いたいほど愉快だと感じたのはほんの一瞬で、すぐに魏無羨は、今にも笑い出しそうなほどに大きく開けた口を閉じていた。

ほこほこと腹の内から温かくなるような何かが込み上げてくる。
それは紛れもなく喜びだ。
自分が描いた絵を、藍忘機が捨てずに持っていたことが堪らなく嬉しい。

そうして同時にまだ子供だったあの頃を思い出し、いつも不貞腐れたように真一文字に口を引き結び、無表情を貫いていた藍忘機への愛しさが込み上げてきた。

揶揄かうことも出来ず、しかし礼を言うのもおかしいような気がして、

「何で取っていたんだ?」

素直に浮かんだ疑問を魏無羨は口にした。

「確かにこれは俺の渾身の作だ。自分でも満足いくほどに上手く描けたと思っている。でもお前はあの時くだらないと言ってたし、その後すぐに俺が仕込んだ春画にお前は怒髪天を衝くほど怒って破り捨てただろ?てっきり同じように破ったかすぐに捨てられたと思っていたんだ。何でだ?」

純粋に知りたいと思った魏無羨の気持ちが伝わったのだろうか。
居ずまいを正し、漸く視線を合わせた藍忘機がひと呼吸置いてその理由を告げた。

「お前は絵の才がある」

捨てるには惜しい、と。

六芸に秀で、画才もあると自負していた魏無羨だが、藍忘機に真顔でそんなことを言われて嬉しくないわけがない。
だがしかし、思わず破顔する魏無羨に、

「花は余計だ」

藍忘機は続けてそう言い放った。
思わず手の中の絵に視線を落とし、指摘された花を見やる。

花弁を大きく開いた桔梗は藍氏の藍(あい)から思い浮かべたのだろう。
八重の芍薬などであれば藍忘機にはあまり似つかわしくないとも言えるが、品のある桔梗は我ながら的を得ていると思う。
だが藍忘機の美しさに確かに華美なものは余計だ。
藍忘機を花に喩えるならば百合の花だろうか。
否、それも華やか過ぎるかもしれない。
凛として涼やかで、慎ましい花が藍忘機には似合う。

あの時、自分は何を思ってこの花を描き足したのだろうか。
今となっては思い出すことも出来ないが、きっとこの桔梗のように心を開いて欲しいと願っていたのかもしれない。

それにしても、と魏無羨は思う。

『こんなことを言えるようになるなんて、藍湛も変わったな』

褒めておきながら蛇足だとばかりに批評するのは、魏無羨がこの絵を見つけたことへのささやかな仕返しなのだろう。
昔の藍忘機ならこんな気の利いたことなど一つも言えなかったに違いない。

目尻が下がり、自然と口角が上がる。
嬉しくて仕方のない魏無羨は、どうやっても笑みを隠すことが出来なかった。


ふと、その絵が埋もれていた書に目がいった。
家規を筆写したそれは、よくよく見ると書家と思えるほど綺麗な字を書く藍忘機のものではない。
隙間なく並ぶ文字は十分整っているのだが、ところどころに気の抜けたように崩れたものがあるのだ。
見慣れたものとは異なるが、どうしてか見慣れたもののようにも思える。

暫くの間それを眺めた後、魏無羨は唐突にそれに気付いた。

「……俺が書いたものか?」

にわかに信じられず、それでも聞かずにはいられずそう問いかけると、藍忘機は微かに聞こえるほどの小さな声で「うん」と首肯した。

「藍湛……」

改めて床の上に広げた紙を見れば、何枚かは一度乱暴に丸められたような跡があり、後にそれが丁寧に伸ばされたのだと見て取れた。
長い時間重ねられていたことで皺や折り目はすっかり伸ばされ、一見しただけではそうであったことは分からない。

手にしたそれを言葉もなくぼんやりと見つめていると、不意に藍忘機が言った。

「叔父上に見せることが出来なかったものだ」

そうして藍忘機の長い指がおもむろに差した先には、整然と並んだ文字に紛れるようにして、一文字分の大きさでどこかおどけた顔の兎の絵が描かれていた。

懲罰として課された筆写だった為、当然それは藍啓仁に提出されていたのだろう。
始めこそ手を抜く為に崩した草書を使い、誤字脱字をいかに誤魔化そうと違う方向に四苦八苦をして並々ならぬ努力をしたものだが、ものの数回でそれが懲罰の回数をいたずらに増やすだけだと悟った魏無羨は、今度はいかに綺麗な楷書を書けるかに心血を注ぐことにした。
ただでさえつまらない内容を書き写すのだ。
少しでも楽しみを見出さなければやっていられなかった。

この書はその努力の賜である為、魏無羨本人も一見して自分の書いたものだと気づかなかったのだ。
これは確かに魏無羨が書いたものだが、魏無羨本来の字では無い。

改めて広げた紙を一枚一枚手に取ると、やはり何処かに集中力を欠いて気の抜けたように崩れた文字があり、兎や亀などの小さな落書きが隠れるように描かれていた。

そうしてふとそのことを思い出す。

「筆写の数が増えていたと思ったのはこれのせいか?」

千回だった筈のそれが幾ら書き写しても終わりが見えず、そのうち面倒になり数えることをやめた。
この日が最後だと藍忘機に告げられるまで続けていたので実際に何回筆写したかは定かではなかったが、品行方正な藍忘機がこんなことで嘘をつく筈もないと信じていた。
それでも何処かで多いと感じていたのは、時折、悪戯心の赴くままに書いたこれらを藍忘機が抜き出し、その分の数を増やしていたからに違いない。

『何てことだ!』

今思えば分からないわけが無いのだが、あの頃の魏無羨は本気で分かるまいと思って愚行を繰り返していたのだ。
あまりに幼い行動に思わず自嘲する。

と同時に、手の中の、丁寧に折り畳まれて保管されていたであろう書を見つめていると、何とも言えない気持ちが奥底から込み上げてくるのが分かった。

この書を、この絵を、不夜天で別ってから藍忘機は幾度となく見ていたのだろう。
そうして、何処にいるともしれない自分を想ってくれていたのだろうか。
それを十六年もの間、繰り返し、繰り返し。

気付けば書を持つ手が微かに震え、目には熱いものが浮かんでいた。

どれだけ自分は想われていたのだろう。
今は生涯の知己と信じて疑うこともないが、かつてはそれを過去のものだと藍忘機に向けて口にしたことさえあったのだ。
口さがなく強い言葉を向けたこともあった。
それがどれほど藍忘機を傷つけたのかしれない。

先程まで浮かんでいた笑みは消え、魏無羨は堪らずに唇を噛みしめていた。

魏無羨が喋らなくなると途端に室内は静かになる。
聞こえるのは微かな風に揺れる梢の葉擦れの音と、遠くに聴こえる鶲の囀りだけだ。

そんな静寂を破るように、黙り込んだ魏無羨に代わって口を開いたのは藍忘機だった。

「絵の才はあるが、落書きの才は無い」

どれも同じだと指を差され、魏無羨は思わず顔を上げた。
そうして大きく見開いた目で手にした紙を見比べる。

言われてみれば、ところどころに描かれた絵は兎、亀、鳥の三種類しかない。
どの紙を見てもその三つが少しばかり形を変えて描かれているだけだった。
確かにこれではあまりにつまらない。
才があるとは言えないだろう。

「藍湛、お前……っ」

真面目腐った顔で尤もらしく指摘する藍忘機にどうにも我慢出来ず、次の瞬間には魏無羨は手にしていた紙を放り出し、腹を抱えて笑っていた。
止まらない笑いに、先程まで薄っすらと浮かんでいた涙が別の意図で溢れる。
涙で滲んだ視界に微かに口端を上げて微笑う藍忘機の姿が映った。

『お前とこんなふうにあの頃の話が出来るようになるとは思ってもいなかったな』

魏無羨が笑い、藍忘機がそんな自分を穏やかに見つめている。
そんな何でもないことがどうしてか嬉しくて仕方がなかった。

笑いながらとうとう床に転がった魏無羨は、そのまま障子を開け放した先に広がる空を仰ぐようにして体を横たえた。
くつくつと込み上げる笑いをそのままに、思うままに四肢を伸ばす。
そうして頬を撫でる微かに湿った風を感じながら、眩しいばかりの陽光を遮るように右手を額へと当てた。
笑いすぎて溢れた涙が一筋、こめかみを伝って肌を擽る。


見上げた姑蘇の空は、何処までも抜けるように青かった。







昨日pixivに投稿したものをこちらでも。
1日で観覧2,300超えにビックリしました。
フォロワーさんも増えて嬉しい限りです。
pixiv、改めて凄いです。
自分でも気に入っているお話なのでとても嬉しいです。

50話以降のcql知己忘羨です。
魏嬰が遊歴から戻ってきたばかりの頃のお話。
虫干しと称して静室を漁っていた魏嬰が見つけたものとは……。

座学時代を思い返す忘羨。
藍湛があれを大事に持っていたら、それが魏嬰に見つかったりしたらと思って書いたお話です。
原作魏嬰だと思い切り藍湛の前で笑って「この美人ちゃんは何て可愛いんだ!」となりそうですが、cql魏嬰はこんな感じでしょうか。
魏嬰はこんなことをやりそう、藍湛はちょっと独特の視点で物を見ていたら面白いと思って書きました。
遊歴から戻ったばかりなのでまだまだ知己知己です。
黙り込む魏嬰は知己の告白回の泣き笑いのあの顔で。

因みにcqlは字幕版派。
吹替はほぼ未視聴の為、口調は字幕版に寄せています。
EDは本国版が好きなので魏嬰の遊歴前に藍湛は仙督に就いています。

観音廟→秋
遊歴→秋冬春
再会→初夏
というイメージで書いています。
半年くらいの遊歴。
ちょっと矛盾も出てしまいますが「驟雨の朝」「花蘇芳」は再会1年後くらいのお話です。
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