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cql忘羨SS。



「驟雨の朝」



雲深不知処、卯の刻。
明け方の驟雨で濡れた飛石を跳ねるように足を進めた藍景儀は、主屋から離れた竹林に囲まれた場所に佇む静室の戸口の前に立つと、息を一つ吐いて呼吸を整えた。
「含光君、お休みのところ申し訳ございません」
三度戸を叩いてから、控えめに、けれどしっかりと聞こえる声で藍景儀はこの部屋の主に呼びかける。
「沢蕪君から急ぎの書簡をお預かりして来ました」
卯の下刻も間もなく終わろうかという時である。
家規に則り卯の初刻には起床している藍忘機がこの時刻まで休んでいるとは到底考え難いのだが、此処にはもう一人、居を共にしている者がいる。
その者の起床がこの雲深不知処において誰よりも遅いのは周知の事実であり、まだ卯の刻のこの時刻では深い眠りの中にいることは明白だった。
その者の眠りを妨げることを何より嫌う藍忘機の不興を買いたくはないのだが、しかし藍曦臣からの使いを疎かにすることも出来ない。
藍思追がいればこの役目を逃れることが出来たのだが、あいにく早朝から仙門世家の来客で藍曦臣と共に手が離せない為、藍景儀に回ってきてしまったのだから致し方ない。
それにしても品行方正な藍忘機が何故あの者の怠惰な様を許容するのか未だに理解し難い。
もともと藍氏の者ではないのだから好きにさせよということだが、ここまで長く雲深不知処にいるのだからもう藍氏と同じではないかと藍景儀は思う。
それに何かにつけて雲深不知処にやって来る江宗主に向けて藍氏の者だと言い切るのは他でもない藍忘機なのだ。
兎にも角にもあの者の眠りを妨げ、藍忘機の不興を買いかねない時刻であることは間違いない。
そもそも時刻に関わらず出来ることなら静室には近寄りたくないというのが本音だ。
「……含光君?」
戸を叩いて暫し待っても返事がないことに首を傾げながら、藍景儀は再び呼びかけた。
常日頃から泰然とした藍忘機が慌ただしく応答する筈がないとは言え、少々時間がかかり過ぎているようにも思える。
まさか本当にまだ休んでいるのだろうかと訝しげに思ったその時、ひたひたと床を打つ裸足の足音が微かに聞こえた。
そしてやや乱暴な所作で開いた戸の向こうから姿を現したのは、この部屋の主である藍忘機その人ではなかった。
「……何だ景儀か。どうした?こんな朝っぱらから」
寝乱れた黒髪を掻き上げて、真っ赤な髪紐で結きながら自分を見下ろしているのは魏無羨だ。
里衣を身に着けているとはいえ、襟元はやや乱れ、足元は裸足のままで何処か無防備な姿に見える。
今にも浮かびそうな欠伸を噛み殺しているその顔も、いかにも起きぬけといった風情が否めない。
実際、戸口に来るまでに幾度か欠伸をしていたのだろう。
潤んだ瞳はまるで泣き腫らしたかのように、そうと分かるほどにはっきりと眦が赤く染まっていた。
「魏、先輩……」
魏無羨のその姿にどうしてかいたたまれない気持ちになった藍景儀は、上気した顔を赤く染めながら視線を足元に逸らすと口早に告げる。
「が、含光君に沢蕪君から急ぎの書簡です」
下げた視線を上げる機会を窺っていた藍景儀は、拝手の下から真っ白い靴先が覗いたのを見て漸く顔を上げた。
魏無羨の背後から現れた、一寸の乱れもなく真っ白な衣を身に纏ったその姿に思わず安堵の息をつく。
藍忘機の浮世離れしたその姿は寝食すら必要としていないのではないかと思うほどだ。
まさに仙の域と言える。
「魏嬰、朝餉が冷める。早く食べよ」
藍忘機がそう言うと、魏無羨は欠伸を一つこぼしてから言われるままにのそのそと卓へと向かう。
その後ろ姿を見送りながら、藍忘機は藍景儀に向かい立った。
「何事だ?」
我に返った藍景儀は藍曦臣から書簡を預かった際に託けられたことを告げる。
「歐陽宗主からです。巴陵の山中に大量の彷屍が現れたとか」
書簡を受け取った藍忘機は魏無羨が朝餉を食している卓の向かいに端座すると、徐ろに書簡を広げた。
その姿に行儀悪く姿勢を崩して汁物を啜っていた魏無羨が問いかける。
「子真のところか?」
「そうだ」
「巴陵なら雲夢江氏が近いだろう?江澄のところに行けばいいのにわざわざ仙督様直々にお願いか?」
そう言いながら魏無羨は手にしていた汁物の椀を置くと、また一つ欠伸をこぼしながら卓を周り、藍忘機のすぐ隣へと腰を下ろした。
そうして藍忘機の手元の書簡を覗き込む。
「仙督様は忙しいな」
揶揄するように笑う魏無羨に藍忘機は顔色一つ変えない。
しかしその姿を見て、藍景儀は何故かまた頬が熱くなるのを感じた。
『……近い』
既に肩と肩は触れ、頬も触れんばかりに顔を寄せた魏無羨の長い黒髪が藍忘機の肩でゆるく波打っている。
それを歯牙にもかけず、
「食うに語らず」
藍忘機は魏無羨へと短く告げる。
「はいはい、物を食べている時は話さない。毎日聞いてるから分かってるよ。でもな、今は椀を置いて食べてないぞ?だから別に構わないだろ?」
「まだ殆ど残っている」
藍氏の家規にあるそれは食事中の終始を指しているのであり、物を口にしていない時は話して良いというわけではない。
そもそも食事中に卓に頬杖を付くのも、途中で座を移動するのも家規で無くとも行儀が悪いことだということは子供にでも分かる。
そんなことを大の大人が毎日含光君から言われているのかと藍景儀は思わず閉口した。
しかしそれもすぐに目の前の光景を見てまた気もそぞろになる。
「朝っぱらからこんなに食べられるかよ……」
そう言いながら藍忘機にもたれ掛かっていた魏無羨は、いよいよその顎を肩に乗せると額を擦りつけるようにして顔を埋めてしまった。
自分の肩で再び眠りに落ちていきそうな魏無羨に視線を向ける藍忘機の表情は常とは変わらずとも、その眦が幾分やわらかく感じるのは気のせいではない筈だ。
「魏嬰、起きよ」
心なしかその声音も優しい。
「うーん……らんじゃ……ん……」
それに返す魏無羨の声は既に消え入りそうなほどになっている。
このまま眠ってしまうのは時間の問題に違いない。
そして藍忘機がそれ以上諌める様子もない。
おそらくこれが二人の日常なのだろう。
『……近いっ!』
最早、藍景儀の心臓は跳ね上がらんばかりで早鐘の如く打ち付けていた。
そうして漸く藍曦臣からの用件は既に済み、いつまでも此処に自分がいる意味が無いことに気付くと、
「し、失礼しますっ!」
藍啓仁の目に留まれば即座に叱責されそうな取ってつけたような拝手と共に藍景儀は足早にその場を後にした。
途中、雨に濡れた飛石で足を滑らせるも、何とか転ばずに影竹堂の門をくぐり抜ける。
それでも上気した頬の熱は引かず、どうにも落ち着かない気持ちは鎮まることを知らない。
歩みを緩めることが出来ないまま、藍景儀は竹林の道を駆け抜けた。
いっそ冷泉にでも浸かりたい気分だ。
『だから嫌なんだ、静室に行くのは……!』
藍忘機も魏無羨も毎日顔を合わせない日は無いし、口数の少ない藍忘機はともかく魏無羨とは言葉を交わさない日も無い。
鍛錬を受けることもあれば二人と共に夜狩に行くこともある。
藍景儀にとって二人の存在は当たり前に日常の中にあり、二人が共にいることに最早何の違和感も感じてはいない。
藍忘機の隣には魏無羨がいて、魏無羨の隣には藍忘機がいる。
まだ年若い藍景儀が生涯の知己とも呼べる二人の関係に羨望すら感じることも少なくない。
幼少の頃から共に切磋琢磨をしてきた藍思追と二人のような関係になれるだろうかと考えることもある。
だが藍忘機と魏無羨の二人は、藍景儀と藍思追とのそれとは決定的に何かが違うのだ。
時折見せられる親密過ぎる距離感や空気感に例えようのない羞恥心を感じるのは一体何なのだろうか。
そもそも知己だからと言って壮年の男が居を共にするものなのか甚だ疑問だ。
そうそう訪れる場所でもないが、未だに静室にある牀榻が一台しかないことを藍景儀は知っている。
そしてそれが意味することは一つしかない。
そう考えると先程の魏無羨のなりには深い意味があるように思え、ますます頬が上気していくのを感じた。
「……だから嫌なんだ!」
藍景儀は堪らずにそう口にすると、猛然と冷泉への道を駆け降りて行った。





何もない知己忘羨です。
意味があるようにも取れますが何もありません。
ただの珍しく早く起きた寝不足寝起きの魏嬰。
思春期景儀が想像しているだけです。
ツイッターで見掛けた静室に訪れた景儀が事後魏嬰を見て飛び上がるというネタを拝借しました。
cql忘羨だとこういう感じかしらと。
傍から見たら明らかに距離感や空気感がおかしくて見ている方がいたたまれなくなるにも関わらず、何もない知己です。
でも牀榻では共に寝ているそんな知己。
何もない知己ですが、寝起き魏嬰の甘えたに藍湛は日々悶々としているのも良いです。
そもそも何もなくても妙な色気がある陳情令魏嬰なので思春期の子供たちにはいろいろ目の毒かと思います。
景儀は動かしやすくて書きやすいですね。
子真も好きなので入れてみました。
江澄に牽制する藍湛も好き。
私の中のcql忘羨はこんな感じです。
なかなか楽しかったです。
タイトルの驟雨は歌詞にあった言葉を無駄に使いたかっただけです。
cqlの曲は歌詞の言葉が難し過ぎて日本語訳を見ても意味が分からないという。
因みに肩で顔を埋める魏嬰に向けた藍湛の表情と声音は、紙人形魏嬰に向けた「别闹」のあの顔と声音で。

雨に濡れた桜と共に。
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